藤村 豪 個展『誰かの主題歌を歌うときに』

藤村 豪 × 深川 雅文 往復書簡パフォーマンス

藤村豪(アーティスト)と深川雅文(キュレーター/クリティック)が行う、往復書簡パフォーマンスをご覧頂けます。

藤村豪個展『誰かの主題歌を歌うときに』に際し、会期直前から会期終了までの6週間に渡り、ギャラリーがフィルターとして介在しながら、二人の間で行われる文通は、「日本語→ポルトガル語→日本語」と2度の自動翻訳を経て、内容に一部ズレが生じた状態でお互いにやりとりが行われます。

※2020年7月3日(金)をもちまして、本パフォーマンスは完結いたしました。

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*両者からの手紙はギャラリーにEメールで送られ、翻訳済の文章のみが相手に転送されます。

(深川氏の論考タイトル「デサフィナード(調子はずれ)」がポルトガル語であることにちなみ、言語選択が行われました)

 
 

原文 

赤:藤村の手紙 

青:深川の手紙

翻訳文 

ピンク:藤村の手紙(を、自動翻訳したもの) 

水 色:深川の手紙(を、自動翻訳したもの)

05.30  |  06.05  |  06.11  |  06.13  |  06.18

06.20  |  06.29  |  07.02 [1]  |  07.02 [2]  |  07.03

藤村豪の行う往復書簡

Jun 29, 2020

深川様

お返事に時間が掛かってしまい失礼しました。
時間があっという間に過ぎてしまうことについて、リチャード・ブローティガンは死後に出版された小説の中で彼独特の文体で苦々しく呟きました。アンドレイ・タルコフスキーが自身の40歳の誕生日の際に日記に残した「だが、これまで何をしただろうか?取るに取らない映画が3本。まったく話にならないし、ひどい」という言葉は呪いのようでもあります。

私の作品と「暮らし」の結びつきについて。そして、騒がしい世界では誰にも聞こえないかもしれないが、静かに耳を澄ませば聞こえてくる、という深川さんのご指摘をとても興味深く思いました。

なぜなら、まず私自身が誰かの営みに耳を澄まそうと努める者でありたいと考えているからです。自分以外の誰かの営みについて記憶に留めること。世界のニュース、すれ違う人の声、喫茶店で交わす言葉や手紙。そしてそれを思い出して考え続けること。ふとした時に「まぶたの裏の猫が笑う」ったり、仲間を自分の耳の中に入れて旅するインドの民話のクロドリのように留めること。記憶について費やした時間が、時間を費やす作品にたどり着かせるのでしょうか。深川さんの仰る「騒がしい世界では聞こえない」という指摘は、作品を鑑賞する者に対して結果として「時間」を求めていることと無関係ではないのかもしれません。切れ目のない時間の中で互いに起きる変化について。「瞬間を捉える」のではなく、「絶え間ない瞬間に捉え続けられている私たちの暮らし」に傾注し続けること。私の行っていることはそれなのかもしれません。

先日展示会場で年配の芸術家が私にこう仰いました。「あなたの作品にはアートの歴史についての言及や批判的な継承が欠落している」、「政治や革命には興味がない穏やかな態度」と。自分では「どうでもいい」もしくは「そんなことはない」と思いますが、一方ではその通りなのかもしれません。なぜなら、多くの場合私が注意を払っているのはポップミュージックや映画そして小説の詩学であり、それらが取り組んできた人々の暮らしについての眼差しの記録だからです。しかし、小説家の庄野潤三さんの丘陵での生活と家族への眼差しを収めた諸作を思い出せば、そこににあるのは穏やかであることと時間をかけることについての政治性だと私は考えています。

こうして思いつくままに書いていると、(ここでは詳しく記しませんが)そこかしこに歌や映画や小説の言葉が顔を出しています。自分が意識するよりずっと多くのことをそういった言葉を用いることで考えているのかもしれません。ポケットの中から取り出せるのは、誰かが誰かへ向けた眼差しの記録、誰かが私に向けた残してくれた言葉なのかもしれませんね。自分が何を言ったのか、それについてはどうしようもなく忘れてしまう。一方で、誰かに与えられた言葉は長く残り続ける。もし人間の営みがそのようなものだとしたら、私の取り組みはそれを辿ること、それと同時にそれを辿ることの難しさについてのものなのかもしれません。

風邪をひきつつ考えた言葉はいつもより簡単に忘れてしまうかもしれませんが、ひとまずにこの辺りで深川さんへとお渡ししようと思います。辿ることの難しいこの遣り取りですが、もう少しお付き合いいただけると嬉しく思います。

藤村

深川雅文の行う往復書簡

Jun 29, 2020

深川

お返事に時間がかかってすみません。
リチャード・ブロティガンは、瞬く間に時間の経過について彼の死後の小説で激しくつぶやきました。アンドレイタルコフスキーは40歳の誕生日に日記にこう書いています。「しかし、あなたはこれまでに何をしましたか?簡単な3つの映画。

私の作品と「暮らし」のつながりについて。深川さんが騒がしい世界の誰からも聞こえるという主張にはとても興味がありましたが、よく聴けば聞くことができます。

何よりもまず、他人の活動に耳を傾ける人になりたいです。あなた以外の誰かの仕事を思い出してください。世界のニュース、通り過ぎる人の声、食堂で交わされる言葉や手紙。そして、覚えて考え続けてください。まれに「まぶたの後ろの猫が笑う」、または耳につけてインドの昔話、ブラックバードのようにとどまる。メモリに費やされた時間は、時間のかかる仕事につながりますか? 「騒がしい世界では聞こえない」という深川さんの提案は、仕事を楽しむ人たちの結果としての「時間」への要求に関係しているのかもしれません。連続した瞬間にお互いに発生する変化について。 「瞬間を捉える」のではなく、「一定の時間に捉えられている私たちの生活」に焦点を合わせ続ける必要があります。それは私がやっていることかもしれません。

先日、年配のアーティストがショールームで私に尋ねました。 「彼の作品は美術史や批判的継承への言及を欠いている」、「政治や革命に関心のない親切な態度」。 「気にしない」「存在しない」と思うのですが、その逆かもしれません。私はよくポップミュージック、映画、小説の詩に注目し、彼らが働いていた人々の生活の様子を記録しているからです。ただ、小説家の庄野純三の、丘での暮らしや家族の視点に焦点を当てた作品を思い起こすと、落ち着いて時間をかけるという方針があると思います。考えている

考えながら書いたところ、あちこちに歌や映画、小説の言葉が出てきました(ここでは詳しくは触れませんが)。おそらく、あなたはそれらの言葉を使うことよりも、もっとたくさんのことを考えているでしょう。私がポケットから取り出すことができるのは、誰かの誰かの様子の記録、または誰かが私に残した言葉です。私の言ったことを忘れずにはいられません。一方、誰かに与えられた言葉は長く残ります。人間の活動がそのようなものである場合、私の仕事はそれに追随すると同時に困難を伴うかもしれません。

風邪を引いていると思った言葉を忘れた方がいいかもしれませんが、深川さんにお譲りします。やり取りは難しいですが、もう少しお時間をいただければ幸いです。

 

藤村

 
 

05.30  |  06.05  |  06.11  |  06.13  |  06.18

  06.20  |  06.29 07.02 [1]  |  07.02 [2]  |  07.03

原文同士のやりとり

※パフォーマンスの副産物として生じた実在しない対話

Jun 29, 2020

深川様

お返事に時間が掛かってしまい失礼しました。
時間があっという間に過ぎてしまうことについて、リチャード・ブローティガンは死後に出版された小説の中で彼独特の文体で苦々しく呟きました。アンドレイ・タルコフスキーが自身の40歳の誕生日の際に日記に残した「だが、これまで何をしただろうか?取るに取らない映画が3本。まったく話にならないし、ひどい」という言葉は呪いのようでもあります。

私の作品と「暮らし」の結びつきについて。そして、騒がしい世界では誰にも聞こえないかもしれないが、静かに耳を澄ませば聞こえてくる、という深川さんのご指摘をとても興味深く思いました。

なぜなら、まず私自身が誰かの営みに耳を澄まそうと努める者でありたいと考えているからです。自分以外の誰かの営みについて記憶に留めること。世界のニュース、すれ違う人の声、喫茶店で交わす言葉や手紙。そしてそれを思い出して考え続けること。ふとした時に「まぶたの裏の猫が笑う」ったり、仲間を自分の耳の中に入れて旅するインドの民話のクロドリのように留めること。記憶について費やした時間が、時間を費やす作品にたどり着かせるのでしょうか。深川さんの仰る「騒がしい世界では聞こえない」という指摘は、作品を鑑賞する者に対して結果として「時間」を求めていることと無関係ではないのかもしれません。切れ目のない時間の中で互いに起きる変化について。「瞬間を捉える」のではなく、「絶え間ない瞬間に捉え続けられている私たちの暮らし」に傾注し続けること。私の行っていることはそれなのかもしれません。

先日展示会場で年配の芸術家が私にこう仰いました。「あなたの作品にはアートの歴史についての言及や批判的な継承が欠落している」、「政治や革命には興味がない穏やかな態度」と。自分では「どうでもいい」もしくは「そんなことはない」と思いますが、一方ではその通りなのかもしれません。なぜなら、多くの場合私が注意を払っているのはポップミュージックや映画そして小説の詩学であり、それらが取り組んできた人々の暮らしについての眼差しの記録だからです。しかし、小説家の庄野潤三さんの丘陵での生活と家族への眼差しを収めた諸作を思い出せば、そこににあるのは穏やかであることと時間をかけることについての政治性だと私は考えています。

こうして思いつくままに書いていると、(ここでは詳しく記しませんが)そこかしこに歌や映画や小説の言葉が顔を出しています。自分が意識するよりずっと多くのことをそういった言葉を用いることで考えているのかもしれません。ポケットの中から取り出せるのは、誰かが誰かへ向けた眼差しの記録、誰かが私に向けた残してくれた言葉なのかもしれませんね。自分が何を言ったのか、それについてはどうしようもなく忘れてしまう。一方で、誰かに与えられた言葉は長く残り続ける。もし人間の営みがそのようなものだとしたら、私の取り組みはそれを辿ること、それと同時にそれを辿ることの難しさについてのものなのかもしれません。

風邪をひきつつ考えた言葉はいつもより簡単に忘れてしまうかもしれませんが、ひとまずにこの辺りで深川さんへとお渡ししようと思います。辿ることの難しいこの遣り取りですが、もう少しお付き合いいただけると嬉しく思います。

藤村

自動翻訳文のやりとり

※パフォーマンスの副産物として生じた実在しない対話

Jun 29, 2020

深川

お返事に時間がかかってすみません。
リチャード・ブロティガンは、瞬く間に時間の経過について彼の死後の小説で激しくつぶやきました。アンドレイタルコフスキーは40歳の誕生日に日記にこう書いています。「しかし、あなたはこれまでに何をしましたか?簡単な3つの映画。

私の作品と「暮らし」のつながりについて。深川さんが騒がしい世界の誰からも聞こえるという主張にはとても興味がありましたが、よく聴けば聞くことができます。

何よりもまず、他人の活動に耳を傾ける人になりたいです。あなた以外の誰かの仕事を思い出してください。世界のニュース、通り過ぎる人の声、食堂で交わされる言葉や手紙。そして、覚えて考え続けてください。まれに「まぶたの後ろの猫が笑う」、または耳につけてインドの昔話、ブラックバードのようにとどまる。メモリに費やされた時間は、時間のかかる仕事につながりますか? 「騒がしい世界では聞こえない」という深川さんの提案は、仕事を楽しむ人たちの結果としての「時間」への要求に関係しているのかもしれません。連続した瞬間にお互いに発生する変化について。 「瞬間を捉える」のではなく、「一定の時間に捉えられている私たちの生活」に焦点を合わせ続ける必要があります。それは私がやっていることかもしれません。

先日、年配のアーティストがショールームで私に尋ねました。 「彼の作品は美術史や批判的継承への言及を欠いている」、「政治や革命に関心のない親切な態度」。 「気にしない」「存在しない」と思うのですが、その逆かもしれません。私はよくポップミュージック、映画、小説の詩に注目し、彼らが働いていた人々の生活の様子を記録しているからです。ただ、小説家の庄野純三の、丘での暮らしや家族の視点に焦点を当てた作品を思い起こすと、落ち着いて時間をかけるという方針があると思います。考えている

考えながら書いたところ、あちこちに歌や映画、小説の言葉が出てきました(ここでは詳しくは触れませんが)。おそらく、あなたはそれらの言葉を使うことよりも、もっとたくさんのことを考えているでしょう。私がポケットから取り出すことができるのは、誰かの誰かの様子の記録、または誰かが私に残した言葉です。私の言ったことを忘れずにはいられません。一方、誰かに与えられた言葉は長く残ります。人間の活動がそのようなものである場合、私の仕事はそれに追随すると同時に困難を伴うかもしれません。

風邪を引いていると思った言葉を忘れた方がいいかもしれませんが、深川さんにお譲りします。やり取りは難しいですが、もう少しお時間をいただければ幸いです。

 

藤村

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