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藤村 豪 個展『誰かの主題歌を歌うときに』

藤村 豪 × 深川 雅文 往復書簡パフォーマンス

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藤村豪(アーティスト)と深川雅文(キュレーター/クリティック)が行う、往復書簡パフォーマンスをご覧頂けます。

藤村豪個展『誰かの主題歌を歌うときに』に際し、会期直前から会期終了までの6週間に渡り、ギャラリーがフィルターとして介在しながら、二人の間で行われる文通は、「日本語→ポルトガル語→日本語」と2度の自動翻訳を経て、内容に一部ズレが生じた状態でお互いにやりとりが行われます。

※2020年7月3日(金)をもちまして、本パフォーマンスは完結いたしました。

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*両者からの手紙はギャラリーにEメールで送られ、翻訳済の文章のみが相手に転送されます。

(深川氏の論考タイトル「デサフィナード(調子はずれ)」がポルトガル語であることにちなみ、言語選択が行われました)

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原文 

赤:藤村の手紙 

青:深川の手紙

翻訳文 

ピンク:藤村の手紙(を、自動翻訳したもの) 

水 色:深川の手紙(を、自動翻訳したもの)

05.30  |  06.05  |  06.11  |  06.13  |  06.18

06.20  |  06.29  |  07.02 [1]  |  07.02 [2]  |  07.03

藤村豪の行う往復書簡

深川雅文の行う往復書簡

Jun 18, 2020

深川さん

お返事ありがとうございました。


川崎でのボルツの展覧会は、当時12歳の私には拝見することは叶いませんでしたが、その展覧会のカタログについての記憶があります。大学時代に友人が持っていたカタログのその裏表紙に配置されていたテキストについて、みんなで夜遅い時間に話し合った記憶です。そこには「写真を小説と映画の間で考えるということ」といった英語の一節があった気がしています。それ以上のことは覚えておらず、手元に残った記憶はいつかの土曜日の夜、遅い時間にそのことについて話し合ったということだけですが。


交わした言葉は過ぎ去るけれど、言葉を交わした時間は確かな実感として留まり続けるのかもしれません。


>「アーティスト側は学芸員の言葉にとらえられて記憶されているのかもしれません。藤村さんはそのような経験はありませんか? 」
私が汲んだ水を飲み干すのではなく、その水を自身の耕す土に注ぎ、そこで芽吹いたものについて言葉にするということ。そのような言葉を与えられることに対しては抗うことのできない喜び(時には呪いともなり得る)があると思います。


私のアート実践について深川さんから与えていただいた言葉でよく覚えているものがあります。
正確な引用ではありませんが「写真の一般的(普遍的?)な使用法であると同時に写真実践の極北でもある」と評していただいたことがあったと思います。


かつて「自分の見ている星空(の写真)」に「相手が見ている星(の写真)」を相手の言葉を頼りに探していくという実践と展示(「ここからそれは見えるかな?」2011年 藤村&内野)を行った時に、
仲間の写真家から「星空の写真は『とある写真家』のシグネイチャーだから、自分ではとても撮ろうとは思えない(あなたはそういうことに抵抗はないの?という含みがあります)」ということを言われたことがあります。


しかし、私たちがその実践で取り上げたのは、毎夜世界のどこかの誰かが空を見上げて星の話をしたり、星の写真を撮っているということについて。そして、その時に起こっている人々の営みにおいての「共有」と「共有せざるもの」についてでした。


先に挙げた深川さんの言葉はまた別の写真実践への言及であったと記憶していますが、「アート」と「ライフ」の関係についての深川さんの視座も含め、このエピソードを捉える言葉としても考えられるのではないでしょうか。クリエイティブな行為の産物や結果としてのアート作品や写真作品ではなく、人々の営みについての一連の行為が、生そのものを指し示す芸術の実践やアート・ドキュメンテーションであるということ。今回の展覧会もまたそういったところをうろうろ歩き回っているものだと思っています。


ブラジル。私もこれまで訪れたことはありませんが、ブラジルのことを考えるときにはブラジル俳句のことを想います。「ブラジル俳句」という言葉が一般的なものかはわかりませんが(吉増剛造さんは大学の授業でそう呼んでいました)、日本からの移民の方々が詠んだ俳句のことです。
俳句はとても優れたアートフォームで、あの短い句の中に季節の中での人々の所作や視線が折り畳まれています。人々のライフ(営み)がポップアップされるという感じです。


ライフがポップアップされる。
きっと私がしていることもそういうことなんだろうと思ったりもします。


あやふやな記憶と、「ライフがポップアップ」という思いつきの言葉を連呼しながら、お返事をお待ちしております。


藤村

Jun 18, 2020

深川

お返事をありがとうございます。


川崎でのボルツ展開催時は12歳で見えなかったのですが、展覧会カタログを思い出しました。友人が大学で持っていたカタログの裏表紙に書かれたテキストについて私たち全員が夜遅く話し合った思い出です。 「小説と映画の間の写真について考える」のような英語の文章があったと思います。もう覚えていませんでしたが、土曜日の夜にこの件について議論が遅くなったことが唯一の思い出でした。


交換された言葉は過ぎるかもしれませんが、交換された時間は本当の気持ちのままかもしれません。


>「キュレーターの言葉でアーティストを思い出すことができます。藤村さんはそのような経験はありませんか?」
取り除いた水を飲む代わりに、自分が育った土壌に水を注ぎ、そこに湧くものを言います。私はそれらの言葉を受け取るための非常に魅力的な喜び(時には呪い)があると思います。


深川さんから私の芸術的実践についての言葉をたくさん覚えています。
正確な引用ではありませんが、「写真の一般的(普遍的?)な使い方だけでなく、写真練習の北端」とも言われたと思います。


もう相手の言葉で見た相手の「星空(写真)」で「相手の星(写真)」を探す練習と展示(「ここから見えますか?」2011藤村と内野に行って、
仲間の写真家が「星空はある写真家のサインだから撮れません。だからやりたくないかな」質問があります。


しかし、私たちがこのプラクティスでアプローチするのは、毎晩、世界中の誰かが空を見て、星について話し、それらの写真を撮ることです。そして当時の人々の活動は「共有」と「共有すべきではないこと」だった。


前述の深川さんの言葉は、別の写真の実践への言及であったことを覚えていますが、深川さんが「芸術」と「生命」の関係についての見方と同様に、このエピソードを捉えた言葉です。それも不可能ですか?つまり、人々の一連の活動は、創造的な行為の産物や、その結果として生まれる芸術作品や写真ではなく、人生そのものを指す芸術の実践と芸術の記録です。今回の展覧会もこのような場所のツアーだと思います。


ブラジル。行ったことはありませんが、ブラジルといえばブラジルの俳句です。「ブラジルの俳句」という言葉がよく使われるかどうかはわかりませんが(吉増剛造氏が大学のクラスで呼んでいたように)、日本からの移民が書いた俳句です。
俳句は非常に優れた芸術形式であり、駅での人々の行動や見た目がその短い文章で2倍になります。人々の暮らしが現れているようです。


生命が現れる。
それは私がやっていることだと確信しています。


不確かな記憶と「人生が現れる」という挑発的なフレーズを呼びかけながら、皆様からのご意見をお待ちしております。


藤村

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05.30  |  06.05  |  06.11  |  06.13  |  06.18

  06.20  |  06.29 07.02 [1]  |  07.02 [2]  |  07.03

原文同士のやりとり

※パフォーマンスの副産物として生じた実在しない対話

Jun 18, 2020

深川さん

お返事ありがとうございました。


川崎でのボルツの展覧会は、当時12歳の私には拝見することは叶いませんでしたが、その展覧会のカタログについての記憶があります。大学時代に友人が持っていたカタログのその裏表紙に配置されていたテキストについて、みんなで夜遅い時間に話し合った記憶です。そこには「写真を小説と映画の間で考えるということ」といった英語の一節があった気がしています。それ以上のことは覚えておらず、手元に残った記憶はいつかの土曜日の夜、遅い時間にそのことについて話し合ったということだけですが。


交わした言葉は過ぎ去るけれど、言葉を交わした時間は確かな実感として留まり続けるのかもしれません。


>「アーティスト側は学芸員の言葉にとらえられて記憶されているのかもしれません。藤村さんはそのような経験はありませんか? 」
私が汲んだ水を飲み干すのではなく、その水を自身の耕す土に注ぎ、そこで芽吹いたものについて言葉にするということ。そのような言葉を与えられることに対しては抗うことのできない喜び(時には呪いともなり得る)があると思います。


私のアート実践について深川さんから与えていただいた言葉でよく覚えているものがあります。
正確な引用ではありませんが「写真の一般的(普遍的?)な使用法であると同時に写真実践の極北でもある」と評していただいたことがあったと思います。


かつて「自分の見ている星空(の写真)」に「相手が見ている星(の写真)」を相手の言葉を頼りに探していくという実践と展示(「ここからそれは見えるかな?」2011年 藤村&内野)を行った時に、
仲間の写真家から「星空の写真は『とある写真家』のシグネイチャーだから、自分ではとても撮ろうとは思えない(あなたはそういうことに抵抗はないの?という含みがあります)」ということを言われたことがあります。


しかし、私たちがその実践で取り上げたのは、毎夜世界のどこかの誰かが空を見上げて星の話をしたり、星の写真を撮っているということについて。そして、その時に起こっている人々の営みにおいての「共有」と「共有せざるもの」についてでした。


先に挙げた深川さんの言葉はまた別の写真実践への言及であったと記憶していますが、「アート」と「ライフ」の関係についての深川さんの視座も含め、このエピソードを捉える言葉としても考えられるのではないでしょうか。クリエイティブな行為の産物や結果としてのアート作品や写真作品ではなく、人々の営みについての一連の行為が、生そのものを指し示す芸術の実践やアート・ドキュメンテーションであるということ。今回の展覧会もまたそういったところをうろうろ歩き回っているものだと思っています。


ブラジル。私もこれまで訪れたことはありませんが、ブラジルのことを考えるときにはブラジル俳句のことを想います。「ブラジル俳句」という言葉が一般的なものかはわかりませんが(吉増剛造さんは大学の授業でそう呼んでいました)、日本からの移民の方々が詠んだ俳句のことです。
俳句はとても優れたアートフォームで、あの短い句の中に季節の中での人々の所作や視線が折り畳まれています。人々のライフ(営み)がポップアップされるという感じです。


ライフがポップアップされる。
きっと私がしていることもそういうことなんだろうと思ったりもします。


あやふやな記憶と、「ライフがポップアップ」という思いつきの言葉を連呼しながら、お返事をお待ちしております。


藤村

自動翻訳文のやりとり

※パフォーマンスの副産物として生じた実在しない対話

Jun 18, 2020

深川

お返事をありがとうございます。


川崎でのボルツ展開催時は12歳で見えなかったのですが、展覧会カタログを思い出しました。友人が大学で持っていたカタログの裏表紙に書かれたテキストについて私たち全員が夜遅く話し合った思い出です。 「小説と映画の間の写真について考える」のような英語の文章があったと思います。もう覚えていませんでしたが、土曜日の夜にこの件について議論が遅くなったことが唯一の思い出でした。


交換された言葉は過ぎるかもしれませんが、交換された時間は本当の気持ちのままかもしれません。


>「キュレーターの言葉でアーティストを思い出すことができます。藤村さんはそのような経験はありませんか?」
取り除いた水を飲む代わりに、自分が育った土壌に水を注ぎ、そこに湧くものを言います。私はそれらの言葉を受け取るための非常に魅力的な喜び(時には呪い)があると思います。


深川さんから私の芸術的実践についての言葉をたくさん覚えています。
正確な引用ではありませんが、「写真の一般的(普遍的?)な使い方だけでなく、写真練習の北端」とも言われたと思います。


もう相手の言葉で見た相手の「星空(写真)」で「相手の星(写真)」を探す練習と展示(「ここから見えますか?」2011藤村と内野に行って、
仲間の写真家が「星空はある写真家のサインだから撮れません。だからやりたくないかな」質問があります。


しかし、私たちがこのプラクティスでアプローチするのは、毎晩、世界中の誰かが空を見て、星について話し、それらの写真を撮ることです。そして当時の人々の活動は「共有」と「共有すべきではないこと」だった。


前述の深川さんの言葉は、別の写真の実践への言及であったことを覚えていますが、深川さんが「芸術」と「生命」の関係についての見方と同様に、このエピソードを捉えた言葉です。それも不可能ですか?つまり、人々の一連の活動は、創造的な行為の産物や、その結果として生まれる芸術作品や写真ではなく、人生そのものを指す芸術の実践と芸術の記録です。今回の展覧会もこのような場所のツアーだと思います。


ブラジル。行ったことはありませんが、ブラジルといえばブラジルの俳句です。「ブラジルの俳句」という言葉がよく使われるかどうかはわかりませんが(吉増剛造氏が大学のクラスで呼んでいたように)、日本からの移民が書いた俳句です。
俳句は非常に優れた芸術形式であり、駅での人々の行動や見た目がその短い文章で2倍になります。人々の暮らしが現れているようです。


生命が現れる。
それは私がやっていることだと確信しています。


不確かな記憶と「人生が現れる」という挑発的なフレーズを呼びかけながら、皆様からのご意見をお待ちしております。


藤村

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