戸田沙也加個展『東京にカンナの花を添える』トークイベント
「写真と花と平和と行為」
タカザワケンジ(写真評論家) × カニエ・ナハ(詩人) × 戸田沙也加(アーティスト)
〈たったひとりの、ささやかなデモ〉
カニエ: アーティストステートメントにあるように、たったひとりの「ささやかなデモ」という言い方をされています。これもある意味、デモなんですよね、きっと。こういう風に、動かない、声もあげないままの。前回のTOKASでの展示タイトルにもありましたね。女性像という、声を発することができない者たちの沈黙の声を聴く、それを拾い上げるというコンセプトでしたよね。
戸田: そうですね。映像のタイトルは私もすごく気に入っていて、『語られざる者の残響』といいます。語られてこなかった、無名のモデルたち、無名にされた女性たちの姿と、その小さな声ひとつひとつに、私が耳を傾けて、その人たちの声を聴くというテーマでした。
今回の作品もそれに近く、「私ひとりのデモ」というとたいそうな感じですが、どちらかというと「祈りの行為」に近いです。崇高なものと対峙した時に感動するような、崇拝の行為とでも言いますか。それも内向的というか、自分に向かっているものです。平和というと外に向かって発信するイメージが強いんですが、どちらかというと私は内に向けて自分の人間的な傲慢さ、醜さのようなものを全部受け入れて、それでも平和というものを考えることを、自分で考えている、という感じです。

《語られざる者の残響》映像
2024 ©︎ Sayaka Toda
カニエ: 前回のKANA KAWANISHI GALLERYでの展示*4 でも、女性性というテーマを扱われていて、そのやり方が、女性の裸婦像ばかり作った男性作家を糾弾するのではなく、作られてしまった女性像や、そのモデルになった女性たちを慈しむ、追悼というか、解放してあげる行為に見えました。男性への攻撃でなく。今そんなになされていない方向性だと思って、新鮮だったし、すごくいいなと思いながら見ていました。
平和のデモも、攻撃的になってしまう場合が多々あるなかで、戸田さんが今回されているのは、本当に、静かなる、内向的な祈りに限りなく近い行為です。こういうあり方というのもまた、「デモ」という強い言葉をあえて頑張って使いつつ、でもささやかな、個人的なというような言い方をされていますが、それにすごく相応しい静謐さを湛えた作品ですよね。いっぽうで力強いメッセージも内包している作品群だという風に思います。戸田さんらしいなあ、という風に見ています。
戸田: ありがとうございます。
普段は「美醜の関係性」や「女性性」について考えながら作品を作っているので、突然「平和」なんて言い出して、どうしたのかと私のこれまでの作品をご覧になってきた方などは思われるかも知れないのですが、私が美醜や女性性について表現することは、今の日本でないとできないと思うんです。もしここがミサイルが落ちて沢山人が死んでいるような国だったら、そんなことをしている場合ではないでしょうから。
平和であることを抜きにしては成立しない、まずそこが大前提としてある、ということを考えないといけないと感じました。今までは花を美醜のテーマとして捉えていたのですが、今回は「平和の意味が込められた花」を扱うことが自分の中でどのような表現になりうるか、ものすごく悩んだのですが、これは作らないといけないと感じました。現在のパレスチナとイスラエルの問題もそうなのですが、個人的には、ロシアの友人のことがあって、このテーマをもう何年も考えていて。
ここに何冊か、私が持ってきた本があります。これは皆さんがご存じのミリアム・カーン(Miriam Cahn)という、スイスのバーゼルに住んでいる大御所のペインターの画集です。彼女は昔から写真と絵画を平行して制作していて、フェミニズムの文脈から語られることも多いのですが、私が彼女の作品を見てすごく感動したのが、原子爆弾のキノコ雲を描いたドローイングです。
カニエ: シリーズで描かれてますよね。
戸田: はい、この色鮮やかな原子爆弾のキノコ雲を描いた一連の作品について、この本の中でなぜ彼女がそれを描いたのかを片岡真実さん*5 が話されています。これを読んだときに、彼女の描こうとした行為の部分にすごく共感したんですよね。自然だったり、花だったり、色々なものが表現されているんですが、平和の上に表現は立っているんだということを考えさせられました。
いまリヒター・ラウム*6 で『ビルケナウ』というタイトルの展覧会が開催されています。ゲルハルト・リヒターがアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の4つの写真を元に、取り憑かれたように作品を表現していて、でも何回か途中で挫折するんですよね。それでようやく完成したのが最近です。若い時から関心を持って制作し続けても、なかなか表現に至らなかった、そういう葛藤にもすごく興味があります。
最近はそのように、あまり政治の観点からは語られることがなかったり、というかその視点で見ていなかった作家も、そういう表現をしているということに気づかされるようになりました。ゲルハルト・リヒターもペインティングと写真、両方制作されていますし、絵画、彫刻、写真というカテゴリーにはっきりと分けることができない作家です。表現したいテーマを追求するために何年か越しにたどりついた表現を、瞬間的にではなく、考えて、追い続けていて、ある時必然性が見えてきて制作できる、そういうところにすごく影響を受けています。
カニエ: まさに戸田さんも、前回のここでの展示が写真家として初めての個展でしたが、それまでにも写真は撮っていらっしゃったんですよね?
戸田: そうですね。
カニエ: でも改めて、写真を表現のツールとして自覚されてから、目覚ましい進化をとげていらっしゃいますよね。今年だけでも何回発表されているんだろう。それが絵画と写真のみならず、映像にまで広がりつつあって。
今回の展示は写真がアウトプットではあるけれど、先ほどお話されていたように、パフォーマンスの記録という部分もあるので、これを撮影する姿自体も、パフォーマンス、ハプニング作品であるとも考えられますよね。そうやって表現の領域を広げていらっしゃいます。
この写真を私が見たときに思い出したのが、小沢剛さんの《地蔵建立》シリーズです*7。同じ小沢さんの《ベジタブル・ウェポン》*8 も平和を表現するという部分では共通していますし、平和のアクションとしては、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの《平和のためのベッド・イン(Bed-Ins for Peace)》*9 という、ベッドにずっと居続けるパフォーマンス作品もありますね。ピピロッティ・リスト*10 が花でガラスを割っていく作品などもそうです。
戸田: あの作品大好きです。
カニエ: 何かああいう、花を使ったデモみたいなね。彼らの持っている激しさとか、攻撃性が一切無いところが新しいと思います。そして絵画と両輪でやっていらっしゃる方ならではの色彩感覚があるような気がする。そのへん、タカザワさんはいかがですか? 写真表現として。
〈ペインターの写す世界〉

『東京にカンナの花を添える』展示風景
2024 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
タカザワ: まず、扉を開けた時に、あの大きい写真があって、街の中に開かれている爽快感を感じました。前回展示された戸田さんの写真は閉ざされたアトリエの中で、その前に展示された写真作品は夜でした。昼間の街の中に行くということは、より情報量が多く、様々なものと出合うということです。そこには色も当然沢山ある。その中で、この色を切り取ってきたというのがすごく興味深かった。赤、黄、白とオレンジと、花の色だけでもいろいろあるのも面白い。同時に、ピントのボケによって、先ほど戸田さんがおっしゃっていたような、自分が花になっているような視点のものもあれば、たまたま街で見かけた花を撮っているように見えるものもある。
さらに言うと、花が花ではなく、ある種の生き物みたいに、都市に侵入してきた何とも意味の分からない、「花星人」みたいなものにも見えてくる。そういう異物が入ってきた時に、私たちの平和な街も異化されて見える。僕の世代だとウルトラセブンとかを連想します(笑)。街に突然、異物が現れて、それまで見ていた風景が異化される、というのは政治的なデモもとも共通します。いま、ちょうど都知事選が終わったばかりなので、余計にそう思うのかも知れません。それはあくまでほのめかしで、それ以上のことは鑑賞者が想像するしかないのですが、いずれにせよ私たちが今いる場所が脆い世界であるということを表現する上で、昼間だということがすごく重要だったのではないかなと思います。
戸田: そうですね。
タカザワ: これまでは夜とか、暗いところとか、限定的なシチュエーションで撮っていましたよね。
戸田: 夜だと見てもらえないなと思って。
一同: (笑)
カニエ: 埋もれてしまうもんね。
タカザワ: 逆に言うと、夜に撮っていたのは、イメージのコントロールのし易さ、世界の作り易さということもありますよね。
戸田: そうです。夜シリーズは継続して制作しているのですが、夜中にいそいそカメラを提げて、車を運転して撮りに行くというのを毎年やっています。
なぜ夜なのかというと、夜に撮るとスポットライトを当てたところだけ写り込むので、とてもイメージが作り易いためです。表現したいテーマに集中できて分散されない。情報が一点に集約されるので、すごくシンプルで、絵画的だなと思います。
絵画のやり易いところは、イリュージョンというか、イメージを思い通りに作り出せるところです。でも写真は沢山の情報が溢れる。ひとつの時間軸の切り取りなので、写真でイメージを湧かせるにはどうしたらいいかと言うと、私はCGが使えないしパソコンも触れないので、夜に撮るしかないと思い、夜に撮りに行ったのが始まりです。
タカザワ: 今回は昼間で、被写体を限定しきれないというか、ここを見せたいという意図を放棄して、その代わり画面のあちこちを見てもらえるように、無意識のうちに考えているんだろうなと思いつつ見ていました。
戸田: 無意識ですね。

《Artichoke#4》
2024 ©︎ Sayaka Toda, courtesy Gallery10[TOH]
カニエ: さっきタカザワさんが「花星人」という言い方をされたけれど、代々木の展示は『モンスター』というタイトルでしたよね。
戸田: そうなんです。
カニエ: あの時は、アーティチョークをモンスターに見立てていたんですよね。
戸田: あれも夜に撮った沢山のアーティチョークを、初めに見たときはすごく美しいと感動したのですが、多くの人が不気味だと思うまがまがしさを絵画に描きたいという衝動から出来上がったものなので、テーマもとてもシンプルです。今まで写真に撮っていた夜のシリーズの絵画バージョンとして作ったんです。
カニエ: それを「モンスター」と名付けたのは何故ですか?
戸田: アーティチョークに出会った時にあの美しさに圧倒されたんです。モンスターって、ゴジラもそうなんですけど、すごく破壊的で、人を沢山殺しているにも関わらず、破壊の「神」と呼ばれることもあるように、神様には破壊の神もいれば創造の神もいるし、破壊と創造はコインの表と裏というか、どちらも存在するもので、どちらにも人を超越した崇高さがあると思います。モンスターも同じように、恐ろしさや醜さだけではない、美しさや圧倒される魅力がある。それでアーティチョークを見出して、描きたいなと思った時に、モンスターというタイトルがすぐ出てきました。
カニエ: その主題は今回の作品にも見事に重なっていて、確かにモンスターにも見えてきますね。
さっきおっしゃっていた、次の瞬間には爆発するかも知れない、「檸檬爆弾」のように街に降りてきた異物であり、怪物のような。それが美醜を束ねたものとして存在することで、街の見え方が変わってきます。直感的に色にも反応していますよね、おそらく。あの自転車は赤いから選ばれたのでしょうか。
タカザワ: ブルーシートに置かれた作品もありますね。
戸田: そうですね。ブルーシートは、工事現場にこっそり入って撮ったものなんです。
タカザワ: ブルーシートが舞台の「ステージドフォト」ですね。
一同: (笑)
戸田: ここに置いたら目立つかな、と思ったんです。街を行く人に見てもらうためなので。
タカザワ: 確かに、インスタレーションみたいですよね。
戸田: 最初は前に置くつもりだったのですが、上に置いたほうが映えると思ったんです。

《Tokyo Canna Project #13》
2024 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
タカザワ: カニエさんが書かれた詩、素晴らしいと思って感動しました。これも黄色、赤、緑など、色をとても上手く印象的に使われていて、カニエさんが色に反応されたというのが伝わってきます。
展覧会で詩がうまれる経験は、僕にとって今回が2回目なんです。1回目は、高梨豊さんという巨匠の写真家がいるのですが、彼の個展のトークイベントに吉増剛造さんが手書きで詩を書いていらして、それをカラーコピーして皆に配って下さった時でした。詩人に詩を書かせてしまう展覧会というのは、絶対的に成功しているんですよね。その感動を今日いらした方は分かち合えているので、本当にラッキーだと思います。カニエさんに、どのように詩を書いたか、ぜひ伺いたいです。
〈展示から紡がれる言葉の断片 カニエ・ナハによる詩〉
カニエ: 今朝書いたんですが、戸田さんの一連の作品を見て、ずっと書きたいと思っていました。実は昨日から始まった自分の展示もあって、忙しくてなかなか時間が無かったのですが、でもすごく書きたかったんです。いい展示に行くといつも言葉を奪われつつ、何かそれでも言いたい気持ちがせめぎ合うんです。それで戦って、書いたものです。本当に色々なイメージと、言葉が頂けますよね、この展示から。
タカザワ: 「ませぬ」からの連続が胸に迫ってきました。
カニエ: 読んでみますか? たまには。
私も直感的に、これは戸田さんがご自身を投影している花なんだろうなと思ったので、戸田さんのお名前をあえて何度もリフレインさせて頂きました。ささやかなデモ、という言い方もぐっときました。この展示を観た時に、「ささかや」とか「さやか」、明るいという意味でのさやか、美しいという意味でのさやか、さやかなデモでもあるし、さやかなアクション、行為でもあるし、ささやかなアクションでもあり、あえかでもあれば、というような、そういう言葉の断片がまずやってきて、そこから詩を紡いでいくイメージで書いてみました。
そして、『東京にカンナの花を添える』という、展覧会タイトルにある「添える」という言葉もいいなと思います。「手向ける」とか「置く」ではなくて、「添える」という言葉が改めてすごくいい言葉だし、強く主張するのではなくふと添えている感じがいいと思いました。そのアクション、行為のささやかさ、さやかさにぐっときて、「添えて」という言葉を頂きました。
こういう詩を頂きました。この展示から。
ここにさやかに火を添えて、
ターミナルに投下する
えてるにたす、永遠の、黄色い
警報、ささやかな
あるいは赤赤と、あえかな
あの日から、あてどなく
街並の葉脈の留まることなく
螺子巻く
秒針よりもなお
あえかな、さやかな
立ち止まり俯くための
バスを待つ束の間の杖の
送水する
分離帯にて
ただひとりでも
たったひとりでも
仮囲いの樹木の向こう
電話ボックスの緑の彼方
祈りの未だ生息する
小声に耳を澄ませて
其処彼処微かな
穴を穿ち、繰返し
ませぬから
ませぬため、ささやかな
ませぬために、
さやかに黄色い火を添える
一同: (拍手)
タカザワ: 詩人の朗読、最高ですね。
カニエ: さっきタカザワさんがおっしゃっていたように、「繰返しませぬ」というのは広島の、あの有名な原爆死没者慰霊碑の「過ちは繰返しませぬから」という碑文から取っています。
河西: あとここの、「たったひとりでも」。
カニエ: そうです、たったひとりのデモですね。掛詞です。音同士を写真とか絵画のように並べたときに語彙や、文字の並びがどう見えるか、響き合うかということを考えて作っています。今回は「さやかに火を添えて」というのがまずあって、そこから転がして、この展示を思い出しながら、という感じでした。まだまだこの展示で沢山詩が書けるんですよ。本当はこのトークの前に来て、小一時間いたら3倍ぐらいの量を書けたと思うんですが、また書きたいと思います。
戸田: この「過ちは繰返しませぬから」という碑を初めて見たのは、広島の展示の時だったんですけど、あまりにもその言葉の重みがすごすぎて、30分ぐらいそこから動けなくなりました。その言葉を見た時の衝撃というか、感動というか、言葉にこんな強い思いがあるのかと思った気持ちを、今思い出しました。この詩に入っていることにも、すごく感動しました。
カニエ: この空間にいると、そこへ繋がっていきますもんね。今日から8月で、改めて広島のこと、戦争・平和のことを考える時期にこの展示を共有できているのは、多分すごく大事なことです。いいタイミングでこういう展示をされていますね。
戸田: 本当に、全部必然なんだという気がします。この花が夏の花で、原爆が投下されて一か月後に咲いたタイミングだったり、すべてが夏に集約されていることも。さらに言うなら私がこの場所で展示する意味もすごくあると思っていて、それはここで初めて展示した時にカンナの作品を展示していたからです。その同じ場所で、この夏に、再びカンナの作品を展示しているということに、今すごく感動しています。
