戸田沙也加個展『東京にカンナの花を添える』トークイベント
「写真と花と平和と行為」
タカザワケンジ(写真評論家) × カニエ・ナハ(詩人) × 戸田沙也加(アーティスト)
日 時: 2024年8月1日(木)18:00〜19:30
会 場: KANA KAWANISHI PHOTOGRAPHY
登壇者: タカザワケンジ × カニエ・ナハ × 戸田沙也加

〈本展のテーマ〉
河西: まず、戸田さんからなぜこの作品が生まれたのかご説明いただきましょうか。
河西: ロシアの友人の話がありましたよね?
戸田: 去年(2023年)のKANA KAWANISHI GALLERYでの展示では、亡くなった彫刻家の解体を待つ古いアトリエと、その裸婦像について作品を制作し、展示期間中に行われたトークイベントでは、今回同様カニエ・ナハさんとタカザワケンジさんと対談しました。カンナの花についてはその時に詳しく説明をしていて、そのアーカイブがギャラリーのウェブサイトに掲載されているので、今回は簡単に、なぜカンナの花の写真を撮ったのかということについてご説明いたします。
まず、この展示のテーマについてですが、去年ギャラリーからお誘いをいただいて、広島で展示をすることになったのですが、広島と言えば、長崎と並んで原子爆弾が投下された世界で唯一の場所です。日本で暮らす自分が、被爆地広島の歴史をどのように捉え、表現しようかと考えていた時に、カンナの花が広島では平和の象徴とされていて、人々の希望になったということを知り、その花を使って何かパフォーマンスができないだろうかと思ったのです。
それで具体的に何をしようかと悩んでいたのですが、カンナの花について調べていくと、広島でCanna Project(カンナ・プロジェクト)*1 という、学校や駅などの公共施設にカンナの花を植える活動を長年行っている団体があって、カンナの花を平和の花として周知するための活動があることを知りました。その活動に興味を持ったのですが、私がそのプロジェクトに関わるというよりは、個人で何かできることをしようと考えたんです。そのプロジェクトには大勢の方々が関わっているのですが、私ひとりではカンナの花を持って、歩いて、置いて、それを見てもらうぐらいしか出来ないと思いました。そこから、東京にカンナを持って行こうと思いつき、カンナを購入して、歩いて、置いて写真を撮ることで、このシリーズが始まりました。
なので、写真を撮りに行ったというよりは、カンナが東京にあるという既成事実を作りたかったんです。私としては、写真作品というよりは、パフォーマンス行為の記録写真という意味合いが強いです。今回全ての写真をあえてフィルムで撮っているのですが、デジタルカメラだと撮影したものがすぐ確認できてしまうので、画角や色彩の入り込みなど構図の方に意識がいってしまうのですが、フィルムだとそうはいかないですし、現像しないと何が出てくるか分からないという制約があるので、今回のテーマではフィルムでいこうと思い、この記録はすべてフィルムで撮っています。

《Canna #1.2.3》
©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
カニエ: これが前回このギャラリーで展示された時の作品で、ある意味、写真家としてのデビューだったんですよね。
戸田: そうです。3年前に撮った作品のシリーズで、『海を越えて、あるいは夜の向こうに』というタイトルの展示でした。ロシア出身で、日本に長く住んでいる友人とカンナを撮影した作品です。
これを撮った時には、この花にそんな意味が込められているとは知りませんでした。コロナ禍で外国人観光客がいなくなった状況で、彼女の存在が異質に見えて、その異質性と、外来植物として根付いて繁殖している植物の姿とが重なるところにすごく惹かれました。夜中に街の中を歩いていた時に、偶然咲いていたその花と彼女を撮影した作品です。
その後、カンナが実は広島で平和の花と呼ばれていたという事を知り、作品に別の意味が出てきました。後から作品自身が立ち上がってくるというか、自分の撮っていたものが当初の意味を越えた意味を持ってくるということを初めて経験して、すごく考えさせられるきっかけになったシリーズです。
河西: この作品について、ひとつ付け加えさせていただくと、これを見るとスタジオで上手に撮れたポートレートにしか見えないんですけど、そうではないんですよね。
戸田: そうなんです。場所を決めて撮りに行ったわけではなく、歩いている中でたまたま咲いていた花と友人を撮ったものです。
カニエ: たまたま咲いていたカンナ?
戸田: はい、たまたま咲いていたカンナで、ちょうど満開の時期を過ぎた、いい感じの枯れ具合だったんです。私の友人は背が高いので、背丈のあるカンナの花が程よく手元に来るような写真になりました。
カニエ: この時は、日本でカンナの花に平和の象徴という意味があるのはまだ知らなかったんですね。
戸田: はい、知らずに撮っていて、その翌年に知ることになり、知ったことでカンナという花が私にとって非常に意味のある花になったのです。それまでは単に異国の地からきた外来種としての魅力というか、ビジュアルの力強さの方に魅力があったのですが、実は200年以上前から日本に根付いていて、しかもそれが、私が生まれる随分前から、信仰とも言えるほどの意味を持っていたことを知り、驚きました。
河西: 朝日新聞の記事もあるんですよね。
戸田: そうなんです。

被爆から約1カ月後に朝日新聞の故松本栄一カメラマンが撮影したカンナ
Courtesy of The Asahi Shimbun
河西: この地には今後75年間何も育たないと言われていたんですよね。
カニエ: この写真は1945年の9月ごろですよね、原爆投下からひと月後に、朝日新聞のカメラマンが撮ったものです。
戸田: そうです。被爆から一か月後に撮影されたカンナの花です。この写真は改装前の広島の平和記念資料館の、最後の空間に2.7メートルほどもある巨大なパネルとして展示されていたそうです。来館者の方々が平和記念資料館の資料で過去の惨禍を目にして、こんなむごたらしいことが起きたのかと傷つきながら鑑賞し、出口にたどり着いたところでこの希望の花を見るのです。この展示構成を考えた人は英断だと思いました。花の写真に希望を持たせて終えるその構成に、とても感動したのです。
この花の話に多くの方々が感動し、カンナを植える活動が始まったそうです。けれど私はそれまで、平和記念資料館に行ったことがなく、この花のパネルの存在やストーリーを知りませんでした。それで私のようにこの事を知らない人も多くいると思い、それを自分の作品を通して提示したいと思いました。最初、東京の街に実際にカンナを植えようかと思っていたのですが、法に触れるので(笑)、鉢を持って行って置くことにしました。花を置いてそれを眺めて、それを色々な人に見てもらおうと思って始めたんです。
カニエ: 置いてる時間はどれぐらい?
戸田: 結構短いです。
カニエ: 何分?何秒?
戸田: 5分ぐらいです。でも結構邪魔というか、勝手に自転車のかごに入れて、満足して撮っていたら、サッと横から自転車を取って去っていく人なんかもいて、待っていただいてごめんなさい!なんていうこともありました。
一同: (笑)
河西: シェアサイクルだったのかもしれないですね。
戸田: 多分そうですね。
カニエ: そのまま乗って行ってしまう人がいたら面白かったよね。平和デモが平和サイクル、みたいな。
戸田: 私のものです、みたいな。

《Tokyo Canna Project #6》
2024 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
カニエ: あわや、平和の花をめぐって諍いが起こったりしなかった? 怒られたりしませんでした?
戸田: それが人に話しかけられることすら全くなくて。誰からもほとんど関心を向けられませんでした。
カニエ: 見ていく人はいなかった?
戸田: それが、一瞥するだけで基本的には皆さん無関心でした。面白いのが、あの作品なんですけれど、バス停の入口にポンと置いて去って、カメラを構えていたら、花が置かれた瞬間はちらっと見る人もいるのですが、その10秒後にはもはや誰も気に留めていないんです。皆さんすぐスマホに戻って、無関心でいる。もしこれが爆弾だったら、と思いました。『檸檬』みたいな。
カニエ: 梶井基次郎の。
戸田: もしこれが、誰かがテロを目的として、鉢の下に爆弾を仕掛たものだったら、などと思う人は日本には多分いませんよね。でもこれが日常的にテロが起こっているような国だったら、私は多分すぐに捕まっていたでしょうし、もし爆弾が仕掛けられていなかったとしても、社会的にも大変なことになっていたと思います。それがすごく今の日本の平和を象徴していて、でもその無関心さが時にはとても危険でもあると思うんです。皆がすぐに無視してしまう。スマホの情報の波にのまれてしまう。
他者に関心が無く、「なんだ花か」と10秒後には無視しているという、その姿自体が危険だと思いました。平和でもあるし、危険でもあることを象徴する、非常に面白い写真になったと思います。この周りにも沢山人が歩いていたのですが、皆さん大体無視されます。私が花を置いて、撮ろうとしている姿を一瞥して終わる、そんな状態でした。私は人に見てもらいたくて頑張っていたんですが、見てもらえなかったんです。

《Tokyo Canna Project #17》
2024 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
カニエ: お話を聞いて、この作品は平和への無関心とか、平和ボケへの批評性、みたいなものが前面に出ている作品だという気がしました。
戸田: それがすごく興味深かったですね。
カニエ: 見事にほぼ誰も見ていないんですね。なかなかシニカルな雰囲気が出てますね。
河西: 私が海外の空港でトランジットをした時に、乗ろうとした便が延期になってしまって、バウチャーが配られるから全員飛行機から降りて、ということがあったんです。荷物も多いし、紙袋をその辺に置いてバウチャーを取りに行ったんです。で、戻ろうとしたら、廊下に規制線が張られていて、私の紙袋を警備員が取り囲んでいたんです。日本がいかに平和かということですよね。
一同: (笑)
戸田: 身を挺して証明したんですね(笑)。
カニエ: 先ほどの話に戻るんですが、平和記念資料館には私も何度か行っていて、リニューアル前にも行っていて、見ているはずなんですけど、意外とその写真パネルについては記憶にありませんでした。出口に至るまでの展示に衝撃を受けて、最後に置いてあるそこに目がいかなかったかな、というと言い訳になってしまいますが。だからこそ5メートルもの巨大なパネルを出口に掲げていたんだと思います。それでも記憶に残らなかった理由は何かと色々考えていました。この写真はモノクロなんですよね、何色なのかな。カンナって、ここで見ての通り、色々な色の種類があるんですよね。
戸田: 真っ赤なカンナが咲いた、と言われているんですが、絶対赤ではないだろうと私は思っています。
カニエ: 見た感じ、白か黄色?
戸田: 私は、どう見ても黄色ではないかと思っています。
カニエ: これがまさに焦土、75年は草花が生えないと言われた焦土として、周りはほぼグレーとか茶色ですよね、きっと。その中に黄色とか、赤でもいいんですが、あったらすごいインパクトだと思うんですよね。
戸田: 黄色だから目を引いたのではないかと私は思っています。色々な文献を読んでいて、なぜ「赤いカンナが咲きました」と書いてあるんだろうと不思議に思いました。これはどう見ても赤ではないと思っています。何色なのかを調べるために、自分の撮影した色々なカンナの花の写真をモノクロにしてチェックしてみたのですが、どう見てもこれは黄色だったと思っています。
カンナはこの大きさに成長するまでに1か月ほどかかるんですが、これが撮影されたのが9月、原爆が投下されたのが8月なので、その1か月後にはもう花が咲いていたということになります。つまりこのカンナは原爆が落とされてすぐに芽吹いて成長して、たった1か月で黄色い花を咲かせたということです。植物の持つ生命力はすごいなと、あの灼熱を耐えたのかと、すごく感動しました。
周りの背の高い木々は、完全に煤と化していて、すべてのものが一瞬にして消滅したにも関わらず、あのカンナは地中にあって、芽吹き、咲いた。色々調べていく中で、そのほかにも蘇生した植物がたくさんあって、朝日新聞の記事に載っています。そのなかで「焦土に咲いたカンナ」と書いてあるので、爆心地から800メートルぐらいで、多分一番近いところで咲いた花だと思います。
カニエ: それをリサーチしてまとめた記事があるんですね。
戸田: はい。その記事に、カンナの植栽運動についての話が載っています。カンナ以外にも、トウモロコシや芋、街路樹など色々な植物があるのですが、私の場合は3年前に撮っていたこともあり、自分の中ですごく必然性のあるカンナのことをクローズアップすることにしました。
〈絵画、写真、その先の表現へ〉
カニエ: そこでつながっていったんですね。すごいですね、写真というのは、現在を写していながら過去も写っているんだろうなというのは薄々思うけれど、未来のことも写しているということですね。
戸田: 作った作品が後々意味を持ってくるというのは、写真を始めて起きたことなので、写真にはそういう力があるというか、絵画にはない、沢山の含まれた意味というか、そういうものがあるなというのを感じましたね。
カニエ: それに関連して、タカザワさんとも先ほどお話ししたところなんですが、今年1月にタカザワさんのスペースで『私写真』というタイトルの展覧会をされていて、数十年にわたりご自身が被写体として写っている写真の展示でした。
タカザワ: 10歳の頃の写真から、現在までの写真で構成した作品です。表現ではなく記録として撮った写真を編集することによって、作品というか、人とシェアできるものにできるのではないか、という試みをやってみました。戸田さんがおっしゃったように、写真というものが持っている色々な要素を組み合わせることによって、何か見えてくるのではないかという思いからでした。
今回、戸田さんの作品を拝見して思ったのは、写真が複数枚で存在することによって、見えてくるものが沢山あるということです。例えば、最初にギャラリーに入ってきた時に、花が写っているなということは多分皆さん気づくと思うんですが、何点か見ていくうちに、その花がもともと街の中にある花を撮ったのか、それともこれは作家が意図して置いたのかということに、だんだん気づいてゆく。写真が複数枚あることによって、作者の意図が、あるいはまなざしが見えてくる。そういう使い方をされていて、写真ならではだと感じました。
カニエ: 先ほど雑談している時に、戸田さんがこのシリーズを映像でもやってみたいというお話をされていました。昨年、物故作家のアトリエを主題にしたKANA KAWANISHI GALLERYでの個展で、アトリエの写真と対になった絵画が、戸田さんのフィルターを通した抽象化、アングルで見えていたものが、今年のトーキョーアーツアンドスペース本郷(以下:TOKAS)の展示では*2、同じ主題が映像と、写真そしてインスタレーションで展開されていて、全然別様の見え方をしていて驚いたんです。
今回は、すべてが写真作品として展示されているけれど、今タカザワさんがおっしゃったように、連作として見た時に、映像的にも見える。こうしてぐるぐるギャラリー内を巡ると、ループの映像作品のようにも見えてきます。ドキュメンタリーの要素すらあるようにも思います。映像でもやってみたいということを話されていましたが、その辺りについて聞かせてください。
タカザワ: 今回は映像を撮っていないんですか?
戸田: 一切撮っていないですね。時間がなかったのもありますが、映像は撮るのにとても根気がいって…
タカザワ: 根気と人手がいります。
戸田: そうなんです。根気と人手と、色々重なって断念しました。カンナの花が咲く時期は本当に短くて、日照時間も限られていますし、それに東京都内の多くの場所で三脚を立てての撮影が禁止されているので。
タカザワ: 道路交通法に触れるんですよね、基本的には。
戸田: これらの作品はほぼすべて路上で撮っています。それから、フィルムで撮影するのに自分が立ってシャッターを押して、ブレない限界は、天気がいい日の昼間でないと難しいのです。なので、限られた時間の中で映像まで撮るのは難しいと判断しました。それに今回は写真の展覧会にしたいという気持ちがありました。ただ、いつかは映像もやりたいとは思っています。
今回は去年撮ったものと、今年撮ったものが混ざっていますが、去年広島で展示した時は、黄色いカンナの花だけを展示したんです。なぜかというと、黄色いカンナの花しか手に入らなかったからです。このテーマでカンナの花を東京で撮りたいと思った時には、9月の後半だったので、すでに花の季節が過ぎていてカンナがなかなか手に入らなかったんです。唯一入手できたのが黄色いカンナだったので、それをたくさん撮って展示しました。
今年はカンナの苗を買ってきて、一から育ててやろうと決めて、球根を沢山植えて、10鉢ぐらい育てていたんですが、なかなか咲かず、結局展覧会が終わるころにようやく咲き始めるような状態でした。それでどうしよう、ということになって、花農家さんに直談判し、店に卸すカンナを買わせていただいたんです。
咲いていないと撮りようがない、というのがすごく花の難しいところです。バラの写真シリーズや友人を撮ったシリーズも本当に期間限定というか、1週間ぐらいで咲いて散るものを、ピンポイントで行かないと撮れない。その難しさがありながら、それが面白いというのもあって、毎年続けています。
このカンナのシリーズも、去年も撮影しましたが、今年も続けたいと思っていたので、河西さんにお声がけいただいて、東京でもやりましょうと言って下さったので、ではカンナを育てます!と言ったものの、全然咲いてくれませんでした。葉だけが生い茂って、結局咲かなかった。小ぶりなカンナが多いのは、花農家さんから仕入れたものだからです。

『東京にカンナの花を添える』展示風景
2024 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
さっき色々な方とお話していた時に気づかされたのですが、自分で撮っていながら不思議なのは、何で花を1点で撮っているんだろう、ということです。普段あまり考えないで撮ったり、作ったりすることが多いので、後から考えるタイプなのだと思います。
例えばこの作品は、花を中心にした3点の写真からなっていて、それぞれの花が俯瞰するように街の景色を眺めているように見えます。おそらくこれは私自身を投影しているのではないかと思います。なぜなら私が花を通して景色を見ているからです。その場で私がこの花と対峙して、まるで分身のように見ているということに気づかされました。それも来場者に「こっちは花にピントが合っているのに、奥にピントが合っているのはなぜですか」と聞かれ、色々考えているうちに、この花たちは自分自身なのではなかろうか、と思ったんです。
これまで10年以上、学生の時から、アレゴリーというテーマを扱っていて、少女性や男性性、女性性について、自分自身を投影した狼の姿だったり、少女の姿だったりを通して表現してきたので、おそらくカンナの花に関しても、平和な街を眺めたり、無関心でいる人たちを俯瞰している姿は、平和という大義名分を背負わされた何気ない花の姿をとった自分なのかも知れない、と思います。うまく説明できないんですが、そういう感じなのかなと思います。
