戸田沙也加個展『東京にカンナの花を添える』トークイベント
「写真と花と平和と行為」
タカザワケンジ(写真評論家) × カニエ・ナハ(詩人) × 戸田沙也加(アーティスト)
■目次■
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〈セレンディピティ、無作為の必然〉
カニエ: 戸田さんの色々な展示の流れを見ても、アーティストの大事な能力は、細い糸、セレンディピティ*12 というか、見えない本当はある繋がりというものを手繰って、それを見える形にしてくれることだと思うんです。そこを見事に一個一個実現されていて、それぞれの展示が繋がっていて、その繋がりが戸田さんの中だけでなく、観ている私たち全員に関係のある、繋がっているものだということを、作品の形で可視化してくれています。あるいは怪物さえも呼び覚まして、私たちに驚きをもって気づかせてくれる。見事な直観力ですよね、本当にすさまじいなと思います。豊かだなと思って、感動しています。
戸田: 嬉しい。写真がもう少し上手くなりたいという気持ちがずっとあるので、表現力をもっと高められるよう頑張ります。
カニエ: どうなんですか、ジャンルでいうと、写真は直観力が他の表現手法より働くのかな?絵画は描き始めてから完成するまでに時間がかかるじゃないですか。両方やってみてどうですか?
戸田: 映像作品をやりたいのは、表現する媒体が異なると、自分で作っていて気づかされることが多くて、後から段々変わってくるんです。
TOKASの時もそうだったんですが、後からこれをやりたいとなって、実際やってみると、今まで絵画と写真しかやっていなかったところに映像を加えてみたら、突然もっと先が見えてきたり、もっと違う表現が出てきたということがあったんです。やりたいことは一つのモチーフやテーマなので、それがどんな媒体で表現されてもいいんですけど、写真だけだと、そこから抜けられないこともあります。
ひとつの表現をやり続けることも大事なんですが、あえて違う媒体を使うことによって、自分の思考力を高めたいというか、もう少し自分が何故そのテーマを表現したかったか考えを深めたいという思いもあるので、映像をやってみたいと思いました。
カニエ: リヒター、ミリアム・カーン、遡ってトゥオンブリーなど*13、映像、写真、絵画など複数の媒体を扱っている作家はこれまでにもいて、戸田さんもこうして表現の領域を広げていらっしゃる。
この間TOKASの時、ファウンドフォトのレイヤーがあったじゃないですか、あれはあの彫刻家が自分の作品を撮った写真ですか?
戸田: あのカーテン越しに見えていたものですか?あれは息子さんが資料のために撮られたものがほとんどです。
カニエ: 確かに、作家本人も写っているものもありましたね。
戸田: あれは資料として撮っておかれたものを、私が展示に使わせていただきたいと言って、快く提供してくださったものです。スポットライトをしっかり当ててあった6点はもちろん私が撮ったものですけど、大量の、小さいほうはそうです。
カニエ: あれはやっぱりファウンドフォト?*14
戸田: そうです、はい。
カニエ: 並べられたのは、戸田さん?
戸田: そうです、私が。
カニエ: 先ほど話に出たタカザワさんの作品のように、戸田さんが編集をされたということですね。ちなみに今回の作品は、アクションをして、撮影もご自身で、という作品ですよね。
戸田: 置く場所を決めたり、撮影をしたのは全部私なんですけど、置いたりするのに夫も大分手伝ってくれました。
カニエ: アシスタントが一人。
戸田: アシスタントというか(笑)、特別協力してくれて。たとえばこのZARAの前の花は、私は道路の反対側から撮影しているので、花を置いて道を渡って戻ると私にすごく注目されるので、夫が置いて、すぐに横に移動してもらって撮りました。
タカザワ: 謎の男性が、花を置いて…
戸田: 花を置いて去る、という。
カニエ: 実行犯と記録犯。怖いですね(笑)。

《Tokyo Canna Project #18》
2024 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY

《Tokyo Canna Project #15》
2024 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
戸田: これも、ヒカリエの中の、窓のところに置いています。30分ぐらいあちこち、ああでもない、こうでもないと移動しながら撮っていたんですけど、皆さん素通りでした。

《Tokyo Canna Project #1》
2024 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
カニエ: (上図の作品を示しながら)これなんか、ビルの窓と葉の響き合いが面白いですよね。
戸田: なぜこの場所で撮ったかというと、ここに個人的な思い出があるからです。ポエティックなんですが、私のロシア人の友人と初めて遊んだのがこのビルのこの階でした。
当時の彼女は、日本の常識を全然知らなかったので、突然コージーコーナーでケーキを5つほど買ってきて、「食べよう」と言われました。えっ、どこで?!と思ったら、「ここで食べられるよ」と。ヒカリエの中の壁とガラスの隙間に入っていって、「ここにしゃがんで食べよう」と言うんです。しかもスプーンもなかったので手掴みで食べました。彼女は日本語もあまり喋れなかったので、お互い片言。私は片言英語で、彼女は流ちょうな英語で、食べながら会話したのが強烈なインパクトでした。何かこの子すごいなと思って。
当時、彼女は大きなギャラリーのインターンで来日していました。この若いロシアの子すごいなと思って圧倒されたことが強烈な印象として残っていて、「あそこで見た景色が面白かったな」と思って撮ったのが最初のきっかけですね。あの時は後になって彼女とカンナを撮るなんて思ってもいなかったですし、彼女が日本で就職してこんなに長く住むことになるとも、ましてや戦争が起きることなど知る由もなく、ずっと女性性を追い続けている私がこういう作品を作ることも、考えていなかったのですが。
カニエ: それを聞くと、女性に見えてきますね。カンナって強そうですよね、葉っぱの勢いもありますし。
戸田: でもそれが、すごく強そうに見えて、切ると一瞬で萎びてしまうんですよね。なので切り花にできないんです。実はミョウガ科なので、ミョウガみたいに咲くんですけど、花自体は本当に繊細で、夏に強いとは言っても、すぐ枯れてしまうし、切ったら本当にか弱いんです。それで切り花ではなく苗を運んで歩いているんです。
最初は切ったものを持って行こうと思ったのですが、ものの10分もしないうちに萎れてしまって。それがこのシリーズを始めた、「置く」と決めたきっかけでもありますね。もしこれが切り花として耐えられる花だったら、変わっていたのかも知れないです。土に入った苗を持っていくのは本当に大変なので。しかも暑い中。夫がほとんど持ってくれたんですけど、これをひとりでやるのは本当にしんどいです。3鉢ぐらい持って行って、それを紙袋に入れて、あっちでもない、こっちでもない、と移動しながら撮っているので。
タカザワ: 移動中の作品がありますよね、犯行途中の(笑)。

《Tokyo Canna Project #8》
2024 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
戸田: そうです(笑)。花テロ、みたいな感じです。
カニエ: 今のお話、すごく面白いんですが、これを見てそれを読み取れる人は誰もいないと思います。でも今日のお話を聞かれた皆さんはこれを見たらそのエピソードを思い出せますね。この写真がこんなに大きく差別化されているのは、戸田さんの個人的な思い出があるからなんですね。
戸田: 本人は忘れているかも知れないんですが、私にはその、彼女がケーキを5個も買ってきたことや、しかもスプーンも無しに手掴みで食べたことなどが、強く印象に残っています。
タカザワ: でもこの作品はカンナがしっかりと撮れていますよね。ちゃんと光が当たっているから、写真の「写る」力が存分に発揮されています。
カニエ: 極私的な思い入れがあるからこそ、何かが、奥行きがあると思わせるんですね。サイズもあいまって。何でここで撮ったんだろう、と。僕は葉の形との響き合いかなあと思っていたんです。
戸田: あちらに電話ボックスの作品もありますが、それもこの友人と渋谷と表参道をうろうろしていた時に、私が彼女を撮った写真がいくつかあって、それがこの場所だったので、撮りたいと思ったんです。
タカザワ: 何か、突然生えてきた感じがすごくいいですね。
戸田: そうですね。そこは意図してはいなかったのですが。

《Tokyo Canna Project #2》
2024 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
カニエ: そういう個人的な必要性や記憶などがあると、隠されているものが増えるから、さっきおっしゃっていたけれど、ポエティックになっているし、写真の奥行になるんですよね。
タカザワさんにお聞きしたいのですが、これも「私写真」になるのでしょうか? 定義が難しいですが、今のお話を聞くと、これはもう私写真なのかなと思いました。
タカザワ: 「私写真」って嫌われているので、そういう風に呼ばないほうがいいですよ。
一同: (笑)
カニエ: でもそれをご自身の展示のタイトルに掲げてますよね。
タカザワ: 僕はあえて、なんです。「私写真」というのは、もともと「私小説」から派生した言葉なんですが、日本文学の私小説は、もともとは西洋の自然主義を受容した時に、現実をリアルに描写するよりも、自分の内面を正直に書くことがリアルなんだと考えたところから始まっていて、自分がいかに他人にひどいことをしたとか、いかに自分がだめな人間かということを告白するような作品が主流なんです。私小説は基本的に情緒的で、だめな自分をだだ漏れさせているように見えるので、しばしば批判されてきました。でも、その中にも面白い作品はあるし、文学初心者でも入っていきやすいという利点もあると思います。
「私写真」については、荒木経惟*15とか、深瀬昌久*16などの写真家が知られていますが、彼らが自分の私生活の極私的な部分を晒していることが注目されがちですが、僕としては、そうではない、普通の人の家族アルバムの中から、皆とシェアできる物語や「新・私写真」とでも呼べるものを探っています。でもそれは非常に個人的なことなので、もしかしたら戸田さんがもっとお年を召して、70、80代になって、自分の身の回りの写真とか、家族とか、友人の写真を再編集した時に「私写真」になるような気がします。その中にふとカンナの写真が入ってきたりすると、より広がっていく。「私写真」には、ある程度歳をとってから編集する楽しみがあると思います。その年齢ぐらいになると、自分の人生とはいえ客観的に見られますよね。
今はまだ戸田さんは渦中にいるから、バリバリ撮って、私的なものは見せないで取っておいてもいいかも知れませんよ。例えば石内都さん*17は「ぜんぶ見せないのが大事だ」っておっしゃっていて、いまも、美術館の個展のたびに未発表の過去作品を出してくる。そのたび新鮮に感じますね。
戸田: 確かに最近多いですね、石内都さんの作品、京都の展示もそうですし。
タカザワ: そうなんです。実はこれもビンテージです、みたいな写真が数多くあるんですよ。
カニエ: どこかでもしかしたら、石内さんの〈ひろしま〉*18と並んで、戸田さんの作品も展示される機会があるかも知れないですよね。
タカザワ: 石内さんの〈ひろしま〉のシリーズは、スナップショットですからね。被爆された方たちの遺品を撮った作品ですが、35ミリのニコンF3というフィルムカメラで、直感的に素早く撮影されています。だからよく見るとピントが合っていなかったり、ブレたりしている写真もあるんですが、それがかえって臨場感になっているんです。
戸田: そうなんですね。
タカザワ: そう。だから物撮りの写真じゃないんです。「撮っている私」がそこに投影されるわけですよ。だから面白いんです。あれを三脚を立てて、ガチっと撮ったら面白くないですよ。
戸田さんの作品もそういう意味でスナップショットですよね。
戸田: そうですね。
タカザワ: 直感的に撮られているから、色んなものが写りこんできて、色んな見方ができるんです。
戸田: ブレていたりとか。
カニエ: 当たり前といえば当たり前なんだけど、写真って、撮った人の向こうに見えているものが私たちに見えていて、それを撮っている側の身体とか、精神状態や心理も写真の前で知覚することができる。そこも大事なんだと、今回この一連の作品を見て改めて思いました。
タカザワ: 先ほど戸田さんが、写真が上手くなりたいっておっしゃいましたけど、多分その上手さっていうのは戸田さんの上手さだからいいんですけど、一般的な意味での上手さは絶対に目指さないでほしいです。普通に上手いっていうことは、普通に見やすい写真だから、つまらないんですよ。
一同: (笑)
タカザワ: ちょっと見にくいというか、これ、どうなってるの?という「ヘタウマ」が一番おいしいというか、作家の写真なんです。上手い写真だと商業写真家になってしまって、危ないんですよ。沢山撮っていると上手くなってしまうから、上手くならないのは才能ですよ。
戸田: 褒められているのか分からない(笑)。
カニエ: 石内さん、「新日曜美術館」の時代に特集で見ましたけど、撮りながら泣いているんですよ、服に話しかけながら。その感情のブレが本当のブレになっていたりする。そこがまた、意識下・無意識下で見る側にも訴えかけてくるんだろうな。大きいですしね、あのシリーズ。
戸田: 石内さんのその、撮って次、というのはすごく分かります。私もこれにあまり時間をかけたくないので、だいたい全部で3日ぐらいしかかけていないです。まあ、2年がかりではありますけど。しかも撮影時間は全部で3、4時間だけです。というのも、あまりじっくり向き合い続けると、気持ちが入ったりブレたりするので、行為としてサクサク終わらせようと、次から次へと撮っていったので、とても分かります。
タカザワ: あと、選択と構成が上手いなと思います。こういうのって、才能というか、特に意識せずにこういう風に組めてしまうものなんですか? 焦点を絞らせないようにしているというか。きれいにまとめようとすると、揃えていくものなんです。揃っていないんだけれど、揃っていなさが色々な想像をさせてくれるという面白さがあります。
写真のサイズの大小のつけ方も含めて、視点の誘導が的確というか、違和感が無いまま画面の中に入っていける構成になっていて、「こう来たか、この次こう来るんだ」という流れがあります。そういう意味で、写真編集の側面からもすごく楽しめた展示ですね。
カニエ: この壁の裏側の作品もすごく良いですね。カンナの写真を今のリアルタイムの東京に向けてるみたいな感じも見事だなと思います。

『東京にカンナの花を添える』展示風景
2024 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
戸田: そういう意図は全くなかったですけれど、ありがとうございます。単純に、大好きな写真なんですが、どこにも収まらなくてどうしよう、ならば裏で、という感じで展示しただけなんです。そういう作品が沢山あって、事務所のほうにも置いています。
タカザワ: 事務所スペースの展示、いいですよね。
戸田: あれも、撮ったはいいけれど、展示はしたいけれど、どこにもはまらなくて。
河西: 何とか見せられないかということで、あちらに展示してみました。
戸田: ありがとうございます。来場者に、他にも作品は無いかと聞かれた際にお見せするために一応置いておいたのを、河西さんがいい感じに展示してくださいました。空間に作品が多すぎると、ひとつひとつに集中できないですし、一点一点ゆっくり見て欲しかったので、あまり沢山並べないようにしました。
最初は、高いところで撮ったものは高いところ、低い位置で撮ったものは低いところで展示しようと考えていたんですが、展示をしながらその方針も少し変化していきました。空間的に流して見てしまわないように、花がひとつひとつ会話しているように、象徴的な位置になるようにしたいと思いました。私のお気に入りや思い出の場所は大きくしたいということで、なけなしのお金をはたいて大きくプリントをしたり。
最近はインクジェットもプリント代が高騰していて、フィルムのスキャニングだけでも高価ですし、写真は展示するだけでとてもお金がかかるのですが、私は写真は大きければ大きいほど好きなんです。絵画の面白さは、自分の背丈を越えるものを作れることにもあると思います。しかも自分が圧倒されるものを作りたいといつも思っているので、写真にもそれを求めてしまって、できるだけ大きいものにしようと思い制作しました。
カニエ: そうなんですね。改めて気づいたけれど、通常の写真展より作品数が少ないですよね、スペースに対しての。展示の仕方が絵画的なんですね。そこに戸田さんの強味とユニークさが出ているんじゃないかな。
タカザワ: 何か、ちょうどいい点数ですよね。
戸田: 嬉しいです。
