戸田沙也加個展『東京にカンナの花を添える』トークイベント
「写真と花と平和と行為」
タカザワケンジ(写真評論家) × カニエ・ナハ(詩人) × 戸田沙也加(アーティスト)
質疑応答1:美醜、ものごとの両面性を見つめて

《美しさのあるところ》
2010©︎ Sayaka Toda
客A: はじめまして。興味深いお話をありがとうございました。何点か質問があります。まず美醜のお話が出ていたんですが、いつぐらいから興味を持たれたんですか?
戸田: 大学4年生だったので、2010年ぐらいからずっとテーマにしています。『美しさのあるところ』というタイトルの個展をしたのが最初です *19。「美しい」とか「醜い」はすごく主観的で個人的なものなんですが、美と醜のビジュアルというよりは、男性性や女性性などの相反するものに興味があると思います。女性性の中にも男性性があったり、男性性の中にも女性性があることや、美しさの中にも醜さがあって、醜さの中にも美しさがあるという両面性に興味があってずっと追い続けています。
また私が高校から大学院までずっと女子校で、家族も3姉妹ですし、周りは女性ばかりで、親戚も女子ばかりで友達も全員女子、男性に会うのは大学の先生かお父さんか、という環境で育ったことにも関係していると思います。男性というものが未知な存在で、コミュニケーションもほとんど取る機会がなく、不思議な存在だったんです。反対に女性には常に出会っていて、沢山の女性、友人たちと関わっている中で、男性とはどういう存在なんだろう、というようなことを大学時代に色々考えていたのがきっかけでした。
女性のことをずっと考えて、女性について描いて、表現していたら、段々、女性って儚くて、か弱くて、可憐なイメージがあるけれども、実は逆なんじゃないか、その面だけではない、恐ろしさとか、力強さみたいなものもあるのではないかと思い、そのテーマで狼と少女を描いて、それが美と醜の対比やテーマにつながりました。
客A: ありがとうございます。
客A: 質問があと3つほどあります。先ほど、構図をコントロールしたくないからあえてフィルムにしたとおっしゃっていました。今はまだ分からないかも知れないんですけど、何で構図を決めたくないんですか?
質疑応答2:フィルムに記録する行為
戸田: やりたい行為に集中したかったからですね。周りの人たちの視線も見たかったのと、どこに置くかということをすごく考えながらやっていたので。私はペインターなので、やはり画角とか構図、光の入り方のほうにどうしても注意がいってしまいますし、デジタルカメラだと普段はそれをレタッチしたり、色々と色彩調整してしまうんですけど、それを一切抜きにした、行為に集中するというのが大前提としてありました。
客A: ありがとうございます。次に、撮影している行為を見てもらいたいという話だったんですけど、それは戸田さんを見て欲しいのか、花を見て欲しいのか、どちらなのかなと気になったのと、すごく他人の目を意識されているのですが、何で見てもらいたいのかなと。私なんかは撮影している時に誰にも見て欲しくないので。
戸田: これが、ささやかなデモであるということが大事だったからです。デモなので、すごく個人的ではあるんですけど、見てもらうことが大前提でした。でも何をしているかというとただ花を置いて撮っているだけの人だけれど、あの人何かやってたな、という風に相手の記憶に瞬間でもいいので食い込めたらと思っていて。それが何かのきっかけで、実はこれが展示のためのパフォーマンスだったことや、この花について知るきっかけにもなればいいと思いました。でもきっかけにならなくてもいいなと思っていて、なぜならこれはすごく個人的な行為だから。
なので私はデモをしています、とか、これには平和のメッセージがあるんです、というのを大々的にはやらないけれど、見て欲しい理由はそこにあります。でも見てもらえなくても良かったんですけど、あまりにも見てくれなさ過ぎて面白かったです。
客A: 花を見て欲しいのか、ご自身を見て欲しいのかについては?
戸田: どっちもですね。私が撮っているのを見て、「何か撮ってるな。あ、花か」という感じに多分人はどちらも見るので。どっちも見て欲しいし、私が撮っている行為そのものを見てもらいたいし、花も見てもらいたい。けれど、その人たちはきっと気にも留めてない。私がこれを平和の行為だと思ってやっているなんて誰も微塵も思わなくて、でもそれでいい、みたいな感じです。
タカザワ: 映像作品だとよりパフォーマンス性が高まるかなと思ったんですよね。撮影風景を映像で見せると、撮影者と被写体の関係性がより立体的になると思いましたね。
戸田: それがすごく難しいのが、映像を私が撮るのか、それともパフォーマンスをしている私を誰かに撮ってもらうのかでは、全然違うものになる。これらの写真作品は私が撮っているから私のメッセージがダイレクトに込められているんですけど、パフォーマンスを映像で撮るとなるとそうはいかない。じゃあどうしよう、みたいな感じで、すごく今葛藤しています。
さっきカニエさんともお話していたんですが、映画監督は自分が思ったように、プロに頼んで人に撮ってもらいますよね。でも自分にどこまでそれができるかと思うんです。私がパフォーマンスをしている行為を誰かに撮ってもらったとして、果たしてその映像作品は私の作品かと言ったら、多分100パーセントはそうではないだろうと思うんです。何度それをやったら私が納得いく映像を撮れるんだろう、とも思ってしまいます。そもそも私が撮っていないのに、それは私の映像作品なんだろうか、という問題もあります。
タカザワ: 戸田さんの作品ですよ。パフォーマーってみんなそうなんじゃないですかね。
戸田: そうですね。なので自分を撮っているパフォーマーは、どこでそれを良しとしているんだろうと、私はそこでずっと躓いています。
タカザワ: でも見る側からすると、そんなに凝ったものでなくても良くて、スマホで撮ったものを繋げただけでもいいんです。アブラモヴィッチ*20の記録映像のように、その辺にいる人が撮ったように見えるものでも、写っている行為に感動するんです。だからやっぱり行為の記録というのは、それもまた下手なほうがいいというか、それこそ一人の人に決めないで、複数の人にその時空いている人に撮ってもらって、それを繋げるなど、編集権を持っていればそれは戸田さんの作品なのではないでしょうか?
戸田: それはすごくいいですね。
タカザワ: カメラが傾いてたり、ピントが合っていなかったり、そういうのが面白いんじゃないですか?
カニエ: ブルース・ナウマン *21のような、自撮り的なのはいかがですか。(双子の)妹さんに手伝ってもらうとか。
タカザワ: たまに入れ替わっていたり。
カニエ: 面白い意味が含まれてきそうですよね。
戸田: 妹とですか。検討します。
カニエ: 双子の写真集は色々ありますね、ダイアン・アーバス*22ほか。
戸田: 双子の要素を入れるとまた別の話になりますね(笑)。ロシア人の友人とは一緒に写真を撮り合おうという話はしています。それは作品になるかは分からないですし、作品としてやりたいというよりは、お互いに撮り合う行為はしたいと話しています。それもやってみたいとは思うんですが、映像作品に関しては、まだ自分がパフォーマンスをして、それを撮ることになかなか踏み切れないでいたんですが、今カニエさんとタカザワさんからいいアイデアを頂きました。
カニエ: 何かまだまだこの先、広がっていきそうですね。
戸田: 頑張ります。
タカザワ: 忙しいですね、絵も描かないといけないですもんね。でもこのシリーズは、花が咲いてる時期だけなので期間が限られてもいますよね。
戸田: そうなんです。自分で決められないので。その時期だけ集中します。
河西: それではこのあたりで終了とさせていただきます。ありがとうございました。
