戸田沙也加 個展『生い茂る雑草の地に眠る』
開催記念トークイベント
「写真と絵画と彫刻と時間」
タカザワケンジ(写真評論家) × カニエ・ナハ(詩人) × 戸田沙也加(アーティスト)
■目次■
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〈身に纏うもの〉
カニエ:今回の作品を見ていると、植物がそれぞれ彫刻たちにおめかししてあげているようにも感じます。前回の写真展では、ご友人の方も素敵なお洋服を着ていましたね。
戸田: そうですね。ひとつは私が渡したもので、もうひとつは彼女と初めて一緒に遊んだ時に彼女が着ていたワンピースです。とても可愛い赤いワンピースが印象に残っていたので、それを着て欲しいとリクエストしました。
カニエ:その時と同じように、植物と重ねることで裸婦像におめかししてあげているようにも見えて、単純な批評だけではない豊かさがあるように感じます。ひとつ気になったのが、描かれている裸婦像で何か身にまとっているものもありますか?
戸田: そうですね。いくつかワンピースや水着を着ている作品があります。モデルをされている方で、ヌードを希望しない方は着衣でモデルをされていたんですよね?
平戸: 父は大学で教えていたので、学生がモデルを勤めることもありまして、本人の希望があれば何かを身につけていたそうです。
戸田: 椿の作品でも、この石膏像はキャミソールのワンピースを着ていたのですが、柔らかく描いていくうちに段々と消えていきました。これはそのままで良いなと思い、そのまま完成させています。
カニエ:先ほども、リボンの結び目が段々と消えていったとお話ありましたが、面白いですよね。
戸田: そうですね。描いているときは無心で進めているのでなんの意図もなく、気づいたら描こうと思ったものが消えていたり、意図せず何かを描いていたりします。
《椿》(detail)
2023 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
《椿》(detail)
2023 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
河西: この椿の花は、砂時計に見立てて描かれているそうですが、左側の一輪だけがこぼれ落ちそうになっていますよね。昨日いらしてくださった方が、その一輪を見て、時間の流れから抗おうとしているようにも見えるとおっしゃっていました。
戸田: その話を先ほど伺って、とても興味深かったです。私でも気づけていない意識のすごく深いところを読み解いて意味を持たせてくれることを、とても嬉しく感じます。最初は、下の方にだけ花を描いていたのですが、なんとなく徐々に顔に重なるように描き足していきました。なので、「砂時計」の形を目指していたわけではないのですが、出来上がった作品を見て、砂時計のように見えると他の方から言われて気がつきました。
いつも色んな方に気づかせていただいてますが、本当は私の深いところで何か意図していたのかもしれないですし、本当にいつも作品を通して考えさせられます。私は、作品が作者の手を離れて、作品自体が語りかけてくれた時、それは作品自体の力であって私のものではないと考えているんです。だから、この作品たちは、すでに私の手を離れているなと改めて思いました。
〈質疑応答〉
河西: この辺りで、ご質問があればお受けします。まずは私から失礼しますが、先ほどタカザワさんからの「これはフィクションなんですね」という言葉が面白いなと引っかかっていて、そこが写真と絵画の大きな違いだと思いました。必然性を感じないと制作できないという思いは強く感じますが、かなり強いフィクションを加えられていますよね。特に、植物では色を大きく変えていますし、そこがとても不思議ですし、興味が湧きます。
タカザワ:入り口が色々あるのが面白いですよね。椿の作品も、僕は重力が下に働いているようには感じなかったので、砂時計だと思わなかったです。浮き上がっているようにも見えますし、写真を撮ってその上に花を散らして、それをもう一度撮っているようにも見えました。
ただ、例えば、僕が見たように上から花を散らしているように見る場合、それはやはり葬儀を連想させますよね。そういう見方もあるだろうし、時間という意味を持たせて砂時計という見方もあるだろうし、それぞれ見方がちがって色んな感想が出てくるのはやはり面白い作品だからだと思います。
戸田: タカザワさんがおっしゃる通り、これは地面に落ちた花を描いているので、花が木から落ちているところではないんです。
タカザワ:それにしてはフワッとしてますからね。だから面白いんですよね。
戸田: 椿の花は、落ちる時に必ず花弁が上を向いて落ちるんです。それは撮影していて気づいて面白いなと思ったんですけど、それでもたまに裏返しになって落ちているものもありました。
タカザワ:回転しているようにも見えますよね。絵の見方が染み付いているから、連続性があるのかなとも思いました。
カニエ:カウンターの奥にはまた少し違った雰囲気の作品もありますよね。
戸田: そうですね。あれだけは油彩ではなくアクリルで描いています。最初はテラコッタや石膏の周りに植物があるように描こうと考えていたのですが、あの作品を描いて、裸婦像と植物を重ねようと決めました。
《背高泡立草のための習作 #1》
2023 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
河西: フィクションを描いていていくとなると、選択肢がいくらでもあるけれど、どのようにして決めていくんですか?
戸田: 感覚です。
カニエ:面白いですね。時間を操っているようにも、操られているようにも思えます。あらゆるメディウムで「時間」がひとつ主題にありますが、写真のもつ時間と、絵画のもつ時間、彫刻のもつ時間、ここにはさまざまありますが、それらが奇跡的にピタッと重なったように感じました。戸田さんは「時の使い手」なんじゃないかと思います。
河西: 先日、とあるコレクターの方がいらっしゃって、本当に長い時間をかけて、戸田さんからも説明いただきながら作品をご覧いただいたのですが、最後に「色んな方向性の話をされましたが、結局どれを言いたいんですか?」といただいた質問に対して戸田さんは「作品を見てください」とはっきりと返していたのがすごく印象的でした。戸田さんはしばらく絵を描いていなくて、数年ぶりに絵画作品を個展で発表されたのですが、私が伝えたいことは全て絵に込めましたので、それを見て感じてもらえたらそれで十分です、と伝えていたんですよね。
戸田: やはりアーティストは、自分が表現したいことを作品だけでなくきちんと言葉で語らないといけないと言われていますが、私は言葉で語らなくても作品が語ってくれたらいいなと思っていて、だからこそ絵画を選んだんですよね。私が表現する写真では、美しいものを美しく撮るだけではなく、説明やコンテクストが必要だなと思っているんです。一方で、絵画は私が表現したいイメージをそのままストレートに表現できるんです。一番のテーマは「醜美」についてですが、みなさんが作品から何を読み取っていただくのも自由です。だから、ただ見て欲しいという強い想いをその時には伝えました。
河西: 戸田さんは美しいだけのものは描かないですからね。
戸田: そうですね。ただ単純に美しいだけではなく、少しゾッとするようなおぞましさや醜さをどこかに感じるものを大切にしています。今回も、人のように見えて人じゃないですし、顔が見切れるように描いていてますが、そこは気味が悪いなと自分でも思います。そんな得体の知れない存在のはずなのに、何故かひたすらに美しいということを表現したいんですよね。
©︎ KANA KAWANISHI GALLERY
カニエ:昨日は6歳になったばかりの息子とここへ作品を見にきたのですが、開口一番「怖いね」と言っていて驚きました。私からしたらとても美しく感じるのですが、子供には怖く感じるんだなと新鮮な発見でした。
戸田: どれも「目」がないんですよね。だから少し怖く感じたのかも知れませんね。
〈画家の写真〉
河西: それにしても、なぜ画家の写真は良いんでしょうね。
タカザワ:見る訓練をしていることが大きいんじゃないでしょうか。画家になりたかった写真家はたくさんいるんですよ。畠山直哉*5さんもそうですし、北井一夫*6さんもそうです。以前に、畠山さんがせんだいメディアテークで開催していたトークイベントを聞きにいったのですが、その中で彼が高校時代に描いた絵をみんなに見せてくれていました。
戸田: そうなんですね。畠山さんはなぜ写真を選んだのでしょうか。
タカザワ:筑波大学で大辻清司*7さんという写真家で評論家で教育者の方と出会い、写真の面白さに目覚めて、それから写真に進まれたそうです。
写真と絵画の関係は本当に面白くて、さまざまなテーマで世界中で展覧会も開催されていますよね。19世紀の芸術写真はどれも絵画を手本にしていましたが、やがて写真ならではの表現が発展していくわけです。機械であるカメラで撮る方が、人間の手で制作するよりも可能性が広がるという発想がその背景にありました。そして、現代ではまた写真が美術史へ合流して、画家も写真家も作品によってメディアを変えることが当たり前になっています。戸田さんが絵画だけではなく写真を発表されることも歴史的な文脈に則っていると考えられます。
カニエ:今の話とも繋がりますが、振り返ると、裸婦画を多く描いていたボナール*8に、ソール・ライター*9、瑛九*10、サイ・トゥオンブリー*11なども絵画と写真を扱いますよね。ソール・ライターはボナールのことが好きだったそうです。イケムラレイコ*12さんも、写真を撮っていますし、やはり写真は絵画の元になっているんだなと感じます。
戸田さんの、絵画と写真でこの個展を成り立たせているあり方はとても斬新で、彫刻も含まれていますし、ひとりオリンピックのような、トライアスロンのような印象を受けます。ひとりのアーティストが複数のメディアを扱って、どこにもカテゴリーできない何かが起きているなと感じます。
〈光をあてるということ〉
カニエ:良い作品は、向き合ったら無限に語り合えますよね。私は今までこの展示へ3回来ましたが、時間帯によって受ける印象が変わります。特にこのギャラリーはガラス面が大きくて自然光がたくさん入るから、空間の特性でもありますけど、とりわけそういうところが強い作品だなと思います。
河西: 特にこの時期は、西日が差し込む夕方が美しいですよね。
戸田: そうですよね。撮影させて頂いたアトリエは北側に窓があるので、大体1日を通していつでも薄暗いんです。北窓だとどの時間帯でも同じやわらかい光で制作ができるので、平戸眞さんあたりの時代は、アトリエを作るときによく北側にガラスをはめ込んでいたそうです。このギャラリーは西向きなので、西日が強く差し込みますよね。元はアトリエで見た作品の雰囲気に合わせて構成を考えていたので、西日でオレンジに染められているのを見てとても新鮮でした。
『生い茂る雑草の地に眠る』展示風景
2023 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
『生い茂る雑草の地に眠る』展示風景
2023 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY
カニエ:光を当ててあげたんですね、色んな意味で。光を連れてきてあげたんですね。
戸田: そうなんです。このアトリエは、このあと取り壊される時以外に光が当たることはもうないので、ここに展示した意味があったなと思いました。
河西: 他にご質問はありますか?
藤崎了一: 写真では今じゃないと撮れないというドキュメント性が現れていて、絵画においては今描く意味や熱意がドキュメント性に繋がっていると思いました。テーマは作品ごとに色々とありますが、「今性」という点は共通しているように感じます。リアリティが表現の根本にあるのでしょうか?
戸田: その通りです。私は、学生時代に「少女と狼」をテーマにずっと描いていたのですが、それは私が高校から大学院まで女子校で、家では両親と三姉妹、従姉妹も全て女性しかいないという環境が関係しています。関わりのある男性は、父や中学までの同級生、学校の先生くらいだったので、女性だけの環境へあまりにも慣れすぎていて漠然と男性は不思議だし脅威に感じていました。
《女子高生曼荼羅》(detail)
2009 ©︎ Sayaka Toda
《美しさのあるところ》
2010 ©︎ Sayaka Toda
戸田: 女性だけの世界はすごく強いなと感じていて、男性がいない、女性が作った女性のための世界を作りたいと思い、最初に描いたのが「女子高生曼荼羅」という2メートルほどの作品です。そこから派生して「女性と男性」「弱者と強者」という対比を描き続けていました。大学を卒業してからも「女性性」を意識した作品を描いていたのですが、男性と付き合ったり徐々に自分の生活に男性が入り込んでくると、それに連れて、必然性を感じなくなり描けなくなってしまったんです。
今でも当時の作品のファンの方からリクエストをいただくのですが、今はもう少女の気持ちもないですし、男女の対比に弱者と強者の意味を持たせることもないので、描くと嘘になってしまうんですよね。
私は女性であるし、ジェンダーについて興味があって、女性性について表現したいという思いがある。だから今回の題材に巡り合えて掘り下げたいという思いを抱けたんです。そういう意味で、今だから作れた作品です。今後、アトリエが取り壊されて他の方々の元へ彫刻作品が渡るまでは、このモチーフの制作を続けようかなと思っています。
河西: ありがとうございました。それでは、この辺りで終わりとさせて頂きます。皆さま、本日はどうもありがとうございました。