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戸田沙也加 個展『生い茂る雑草の地に眠る』

開催記念トークイベント
「写真と絵画と彫刻と時間」

タカザワケンジ(写真評論家) × カニエ・ナハ(詩人) × 戸田沙也加(アーティスト)
 

「拡散していく写真」と「絞っていく絵画」

〈「拡散していく写真」と「絞っていく絵画」〉

タカザワ: 写真は元々絵画の材料として撮っているというお話でしたが、写真に撮ってそれを元に描いていたのですか?

戸田:  そうです、大体は写真を見て描いています。

タカザワ: 名前の問題とも関わると思うのですが、今回の展示で面白いと思ったのが、写真は具体的に写ってしまうということ。それに対して絵画は省略できたり情報量を減らせるということです。もし写真がなくて絵画だけだったら、この描かれているものが彫刻ではなく「女性像」として見ていたかもしれない。写真があることで「とある作家の作品」と関係しているという補助線が引かれていると思いました。

僕は写真を専門としてますが、写真はいろんな方向に情報が伸びていて、様々な読み取り方が可能です。絵画の場合は情報を絞れるので、戸田さんが表現したいことに焦点を当てられますよね。だから、「拡散していく写真」と「絞っていく絵画」の関係性がこの展示ではすごく面白いと思いました。それらを仲介しているのが「彫刻」で、フレームを超えて彼女たちが行き来しているような、そんな妄想をしながら見ていました。そういった写真の特性については、どう感じていますか?


戸田:  おっしゃる通り、写真には色々と写り込んでしまうのですごく難しかったです。絵画で背景をベタ塗りしたのは、元にいた女性が作品になったことで匿名になり、終わっていくというイメージをより分かりやすく伝えるためです。写真に関しては、どのようにしようか悩みましたが、ここにあるのはかなり厳選して残ったものたちです。

タカザワ: 写真の選び方がまたいいんですよね。

戸田:  もっと良く撮れているものは沢山ありました。ただ、少し強調しすぎていたりもして、この展覧会ならこれにしようというものだけを選びました。

タカザワ: ここで名前の問題に戻りますが、この彫刻家の名前がなくて本当によかったなと思いました。そこに彫刻家の名前があると、やはり写真を記録として見てしまうんですよね。戸田さんは、記録としても見える写真を敢えて選んでいると思うんです。特に棚の上の写真なんてすごくあっさりとメモをとるように撮っていますけど、そういう中立的な撮り方をすることで、逆に写っている彫刻たちが立ち上がってくるように感じます。

例えば彫刻家の名前があったら、ここにある「無名の女性たち」が、この作り手によって無名にされてしまったという意味も出てきてしまいますが、彫刻家としては別にそういうつもりではなかったはずですから。そのニュートラルな視点というのが写真にあるし、だから絵画の方にスッと入っていけたなと思いました。


 

《生い茂る雑草の地に眠る #6》

2023 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY

戸田:  写真を撮るときにすごく気をつけたのは、この作品たちが私の作品にならないようにしようという点と、作品の良さをどれだけ写真で表現できるかという点でした。もっと自分の作品のようにすることもできたのですが、彫刻家の生きた証がそこに現れてほしくて、あえてしないようにしました。

 

カニエ: 平戸先生ご本人の写真も高い位置にあって、それがとても象徴的にも見えますね。

 

戸田:  写真の並び方は、この壁を見ただけで、この空間へ入ったような感覚を味わっていただけるように、どこに目線があったのかで高さを変えています。低いところにあったものは低い位置に掛けていて、先生の写真は棚の高いところにあったので、上の方へ掛けています。

『生い茂る雑草の地に眠る』展示風景

2023 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY

カニエ: 私たちが、このアトリエを窓から覗き込んでいるように見えますよね。また全体を通して、すごく丁寧な眼差しのあり方というのを、意識的にも無意識的にも感じます。このアトリエに差し込む光は太陽からくるものだけど、この光の柔らかさが、戸田さんから発せられている柔らかい光のように見えました。

植物について

〈植物について〉

河西:  絵画には、彫刻だけではなく、植物も描かれていますよね。その意図をご説明いただけますか?

 

戸田:  このアトリエにはお庭もあるのですが、その庭に生えている雑草を描いています。来年取り壊し予定のこの場所は、平戸眞さんのご家族が生活する自宅兼アトリエだったんですが、ここ5年ほどは誰も住んでいなかったので、段々と庭の木々や植物たちが家を覆っていたんです。その状態がこの美しいテラコッタたちを飲み込んでいくように見えて、アトリエがなくなってしまう時間の中で、時が止まった彫刻たちと、植物たちだけが瑞々しく野生的に生きているという対比がとてもシンクロするなと思い、彫刻と植物たちを共に描きました。

 

一番窓側にある作品では、藪枯らしを描いています。藪枯らしは、その名の通り藪を枯らすほどの生命力のある植物で、一般的には忌み嫌われるものですが、実際に植物がアトリエを覆っている様子を見て、描きました。

《藪枯らし》

2023 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY

《水仙》

2023 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY

戸田:  その隣にあるのは水仙です。本来なら美しく咲く花ですが、庭のあちこちに生えて、雑草のように増えていました。その間に、蕗(ふき)のとうが生えていて、その様子をそのまま描いています。ここで描いているテラコッタは、庭に実際に置かれている作品です。なぜ作品が庭に置かれているのか、理由が分からないのですが、今日は、このアトリエに行けるきっかけをくださった私の恩師の平戸貢児(ひらと・こうじ)先生にお越しいただいているので、理由をお聞かせいただけますか?

 

平戸: 見ての通り、アトリエの中に作品が置ききれていないんですよね。テラコッタは、焼き上げた後に、色々と手を加えないと作品として成立しないので、その作業を終える前の段階のものは弾かれて外に置かれているんです。要は、完成品ではなく、二番手のものたちが外に置かれています。石膏で作られているものは、雨で侵食されていますが、テラコッタは焼き物なのでほぼ変わらないんですよね。

 

戸田:  そうだったんですね。私はこのアトリエには何年も通っていたのですが、実は、庭にこのように作品が置かれていることに今年になるまで気がつかなかったんです。というのも、庭が植物に覆われていて、特に夏の時期はほとんどの作品が隠れてしまっていたんですよね。平戸先生に、庭にもあることを教えていただいて、ようやく気づきました。水仙で描いているテラコッタは、長年その場所に置かれていたので、足元が地面に埋まっていたのですが、上を見上げたその顔に、その時偶然にもすごくいい光が差し込んでいたんです。その姿がとても美しくて、描きたいと思い撮影しました。
 

《生い茂る雑草の地に眠る #8》

2023 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY

カニエ: この絵画で描いている彫刻と植物は、実物と同じくらいのサイズや比率ですか?

 

戸田:  彫刻は、実寸程度で描いていますが、雑草は実物よりも大きいです。風がなびく様子と、津波のようなものを表現したくて、敢えて大きく描きました。

 

カニエ: 水仙の花も、開いているものとつぼみのものが描かれていますよね。テラコッタの彼女が見上げた先につぼみがあって、その目線やアングルに何か意図はありますか?

 

戸田:  それは写真にあった通り描いているので、偶然です。線を描いている時に、たまたまそこにあっただけで、テラコッタに光を差すためにそこにつぼみを置いたわけではないのですが、すごくいい場所に描けていましたね。

 

カニエ: この対面にあるアトリエの写真では、扇風機が置かれていますが、その黄色と水仙の黄色が響き合っていますよね。扇風機は、そこにあったものですか?

 

戸田:  アトリエに置いてあったものは、動かさずに撮影していたので、扇風機もあの場所に置かれていました。実は、あの写真には、平戸貢児先生の作品も写っています。平戸先生は、お父様と同じく彫刻家ですが作風は全く違うもので、真鍮で彫刻作品を制作されています。その作品も、偶然その空間に置かれていました。

 

アトリエを撮影するなら(真鍮の作品を)動かそうかとご提案いただきましたが、そのままを撮影させていただきました。これも意図せずでしたが、作品として見た時に、父は裸婦像を作り続けていたけれど、その息子の世代には完全に抽象作品に移っていったという、対比が分かりやすく現れていて面白いですよね。
 

《生い茂る雑草の地に眠る #1》

2023 ©︎ Sayaka Toda, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY

カニエ: 展示の仕方も面白くて、写真と絵画の壁を完全に分けていますよね。

 

戸田:  そうですね。点在させるのは好きではないので。写真はアトリエを表現しているし、絵画は、この空間から私が感じとったものを表現しているので、そこは明確に分けています。

 

カニエ: この展示構成で作者の制作プロセスの往来を、行ったり来たりすることで私たちも感じとれる面白さもありますし、見ているとあの扇風機の風が、あの水仙の周りの草をなびかせているんじゃないかなと思ったりもしました。写真と絵画が向き合うことで、扇風機と水仙のように新しい意味も生まれてきてとても興味深いです。

 

また、この椿の作品がとても好きなんです。描かれているものは具象なんですが、それでいて抽象画といってもいいほどの抽象性、普遍性も獲得していると思いました。私は画家のアンドリュー・ワイエス*3が好きなのですが、彼の代表作に「クリスティーナの世界」がありますよね。椿の作品はまさに戸田さん版クリスティーナのように感じました。

 

戸田:  私もそう思いました(笑)。クリスティーナっぽいですよね。

 

カニエ: あの作品は、「クリスティーナ」と名前も出したリアリズムの絵画ですが、とある普遍的な女性を象徴していると思うんです。戸田さんの作品もその境地に踏み込み始めているような気がしています。

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脚注

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*3   Andrew Wyeth (アンドリュー・ワイエス):アメリカン・リアリズムの代表的画家であり、戦前から戦後にかけてのアメリカ東部の田舎に生きる人々を、鉛筆、水彩、テンペラ、ドライブラシなどで詩情豊かに描いた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アンドリュー・ワイエス

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