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田中和人 個展『Picture(s)』開催記念トークイベント

「写真とは何か? —田中和人の作品から考える—」
田中和人 × 金村修 × 小松浩子

日 時: 2022年10月1日(土)19:00〜21:00

会 場: KANA KAWANISHI GALLERY

登壇者: 田中和人 × 金村修 × 小松浩子

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『Picture(s)』について

〈『Picture(s)』について〉

本日はご来場いただきましてありがとうございます。田中和人『Picture(s)』を記念してトークイベントを始めます。本日は、写真家の金村修さん、小松浩子さんにもお越しいただいています。今回は田中さんが司会もされるということで、それでは田中さんよろしくお願いいたします。
 

河西: 

田中: 

今日は3人で「写真とは何か?」という壮大なテーマについて話していこうと思います。結論は「分からない」で終わる可能性もありますが、分からないからずっと取り組んできていますし、いかにそこへ接近し、問うていくかということを日頃から大切に考えています。

   僕も写真を始めたころはスナップショットから始めて、今なお、その写真の延長と考えて作品を制作しています。今の作品は、いわゆるスナップ写真のような写真からはだいぶ遠くにきている反面、同時に写真の本質には近づいてきているなとも思っています。まずは、今回の個展を見た感想を伺えますか?

 

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『Picture(s)』展示風景

©︎ Kazuhito Tanaka, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY

金村: 

この作品は、去年違うところでも展示していましたけど、そのときはこのアクリルのフレームに入っていなかったですよね。ウェブで作品を見ていたときは、写真の部分の素材が何なのか分からなかったのですが、カラーの印画紙と知って驚きました。

僕は写真と絵画は合わないと思っていたんです。グループ展などを見に行っても、絵画の横に写真が1枚あっても弱いじゃないですか。でも田中さんのこの作品では、絵画と写真が同じに見えるんですよね。境界線ってないんだなと思いました。この写真は露光をかけているだけですよね?

 

そうです。何かの写真の一部を切り取っているのではなく、カラーの印画紙をいろいろな色で露光して発色させているだけです。

田中: 

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『Picture(s)』展示風景
©︎ Kazuhito Tanaka, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY

このキャンバスに描いているものに似ているといえば似ているし、似ていないところもある。写真と絵画は、実は曖昧なんだなと思いました。このアクリルケースをかける前は、もっと生々しく感じていましたけど、ケースを介して見るとそれらがとても近く感じて不思議な感覚になりました。

金村: 

私も以前の展示から拝見していたのですが、違いが見えてとても良かったです。絵画に合わせて写真を焼くのではなく、それぞれ写真を先に作られていることを伺って驚きました。また印画紙の表面は乳剤があるので艶がありますよね。それと絵の具の呼応がいいなと思ったんです。質感の違いが出ていますよね。
 

小松: 

ありがとうございます。そうですね、このPicture(s)シリーズを作るには、カラーの暗室を数日間借りて作業します。さまざまなバリエーションの絵の具を作るような感覚で、印画紙をさまざまな色の光で露光させて数百色の写真というか印画紙を作ります。キャンバスには絵画の部分を先に描きます。そしてその後、絵画の中で使われている色や構図を、暗室で作っておいた大量の写真(印画紙)から探して、マッチングするようにちぎって構成しています。

ごく最初のころはケースをつけていなかったのですが、今は必ずつけています。アクリルボックスのケースをつけることで作品が完成します。光を通して見るということもありますが、「見る」という行為へ戻すためでもあります。僕は「写真と絵画の関係」をいつも意識していて、最終的に写真へ戻すように作品を制作してきました。今回は、絵画と写真が絵画と写真としてそのまま残っていますが、アクリルを通すことで写真へ戻しているという感覚があります。
 

田中: 

そうですね。アクリルなしで見たときと比べて、今回アクリル越しにこの作品を見て、これで私たち鑑賞者が向かい合うことができると思いました。
 

小松: 

田中: 

この作品を見て、写真作品だと思いますか?

金村: 

いまは外光がないので、印象が違いますね。先日こちらへ伺ったときは、ちょうど西陽が差し込む時間帯だったので、まったく印象が異なりました。アクリルがないときは、絵画作品だなと思いましたけど、アクリルに入ったことで写真の印象を受けます。写真は、シャッターを押すことで幕を下ろして、一旦世界と遮断するということだと思うのです。目の前のモノをそのまま直接に再現するわけではないので、意外と直接性がないですよね。

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Picture(s) #29

2022 ©︎ Kazuhito Tanaka, courtesy KANA KAWANISHI GALLER

駒込のKAYOKOYUKIでの展示*1で、絵画に写真を合わせている作品も拝見しましたが、それも写真作品だなという印象がありました。

金村:

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PP #15

2020 ©︎ Kazuhito Tanaka, courtesy KAYOKOYUKI

田中: 

あの作品も、最終的にはアクリルに入れました。よく「レイヤー」という言葉を使いますが、僕の中では「フィルター」という言葉のほうがしっくりきます。「フィルター」はそれを通して「見る」という行為を表すのに近い気がするんですよね。写真を考えるときはいつも、物理的にも概念的にもフィルターを通して見るということが僕にとっては必要になる気がしています。その辺りどう思われますか?

金村: 

そうですね、フレームが強調されていますよね。写真は世界をフレーミングして見るということですから、そうするとフレームの内と外ができますよね。この作品もアクリルを通すことで内と外の境界線ができて、そこが写真的なのかと思います。

私はいつも作品を見るとき、それが写真かどうかを判断する基準に「写真の機能」を取り入れているかを注目します。この作品は、写真的機能を操作することなく、印画紙の特性を活かしていてとても写真的だなと思いました。

小松:

写真は「ドーナツの穴」

お二人の作品は被写体を撮る写真ですが、僕の作品のように写真が機能として存在していることと、違いや共通性などについてはどうお考えですか? 

田中:

金村: 

僕は東京を撮っていて、小松さんは工事現場を撮っていますけど、写真って写っているものについて語られますよね。それだと写真は「何か実在するものを写すもの」となってしまうけど、僕は学生のころから、写真は実在しないんじゃないのかなと思っていたんです。

 

写真はドーナツの穴に似ているなと思っていて、真ん中の部分は存在しないんですよね。写真もフレームはあるけど、その中には何も存在しない。フレームを作る何かがあることで存在するものが写真であり、写真それだけでは存在できないんですよね。

 

確かに写真はイメージを直接写すけど、印画紙やフィルムの関係性で成り立っているもので、田中さんの作品を見ると、これも印画紙と絵画とアクリルの関係性で成り立っているから、とても写真的だなと思いました。写真は、実在するものではなく、関係性の中で成立するもの。だから、そこが、田中さんと僕たちの似ているところなんだと思います。

〈写真は「ドーナツの穴」〉

ありがとうございます。その話にもつながることなのですが、先日、キュレーターの梅津 元さんがこの展覧会場へ見に来てくださいました。彼は、僕たち3人の論考を書いてくださったり、展覧会を企画していただいて、日頃からとても作品を分析してくださっている方です。

田中:

梅津さんと話していて、写真を「撮る」という言葉自体がおかしいという話になりました。たとえば、魚を「釣る」というとき、魚は存在しているので釣ることができる。けれど、写真はそのときにはまだ存在していないのに「撮る」というのはとても矛盾があり、でもそれで成立しているのがおかしい、と。写真はないものなのに目的語になっている。主語として使うべきだ、という話になり、そのときにとても腑に落ちたんです。その直後、梅津さんから「この展示空間の写真、撮っていいですか?」と聞かれましたけど(笑)。
 

田中: 

(笑)

一同:

〈写真は「撮れ」ない?〉

写真は「撮れ」ない?

「写真が表出する」という言い方のほうが、正しいのかも知れませんね。

河西: 

でも、行為としては「撮り」ますよね? だからその写真を撮ることの不可能性というか、そこに秘密が隠されているなと思うんです。言い換えれば、シャッターを押したときなのか、印画紙に露光されたときなのか、どのタイミングで写真が写真になるのかという話にもなりますよね。

田中:

そうですね、最近僕はチラシでコラージュを作っているけど、そこには「この写真はイメージです」と書いてあったりして、それもとても不思議だなと思います。
 

金村: 

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Total Multimedia Life
2022 ©︎ Osamu Kanemura, courtesy MEM

金村:

たとえば、70年代にゲイリー・ウィノグランド*2という写真家がいて、「写真を撮るように写真を撮る」といったんですよね。それは、常に頭の中では、現実の世界を写真として見ているということなんです。直接世界と触れ合うのではなく、写真というフィルターを通すことでしか世界と触れ合えないということだと思います。

 

ほかにも、原將人(はら・まさと)*3という8mmフィルムカメラの映画監督がいますが、彼は「まるで映画を見ているようだ」と映画の中でいっていました。フィルムなんて回さなくてもすでに世界は映画になっていると。そのセリフには、若いころにとても感動しました。

 

写真も同じように人間が撮る前からそこにあって、でも存在しているのかというとそういうわけではない。何かと何かの要素が関係をもつことで表出してくる。ただし、表出するといっても写真そのものは現れてこないんですよ。たとえば「鏡」でいうと、鏡には常に何かが映っているから、鏡そのものを見ることはできないじゃないですか。写真も常に何かが映っているから、写真そのものを見ることはできないんです。

まず写真を撮っているとき「自分では撮っていない」という状態が大切なんです。今はもう慣れたので、撮り始めてすぐから脱力して撮れるようになりましたが、写真を始めた当時は、朝から撮って、夕方ヘトヘトになった辺りでようやく「自分」が引っ込んで写真が撮れるようになりました。だから、自分で撮っているのか、撮らされているのか、というところは私もすごく不思議です。自分では単純にカメラを運んで構えているだけで、「撮る」ときは極力自分が出ないようにしているほうが上手くいくんです。
 

小松: 

まあ、やる気があって撮っている人ってダメですよ。

金村:

(笑)
 

一同: 

金村:

僕は、たまに学校の実習で教えるんだけど、頑張っている人の写真ってやっぱりつまらないんですよね。やる気があるとダメなんだよと伝えてるけど、いつもみんなから不思議な顔をされます(笑)。撮影者がメディアみたいなものだから、なるべく空っぽのほうがいいんです。

​1    

脚注

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*1   「あれか、これか」(2020年、KAYOKOYUKI)  http://www.kayokoyuki.com/jp/200704.php
*2   ゲイリー・ウィノグランド:20世紀半ばのアメリカの生活とその社会的問題の描写で知られるアメリカのストリートフォトグラファー。  

  https://ja.wikipedia.org/wiki/Garry Winogrand

*3   原將人(はら・まさと):日本の映画監督。

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