田中和人 個展『Picture(s)』開催記念トークイベント
「写真とは何か? —田中和人の作品から考える—」
田中和人 × 金村修 × 小松浩子
■目次■
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■質疑応答1:絵画の感覚、写真の感覚
■「写真」と抽象と具象
■「見えなくてもいい」写真
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■1枚の写真
■「写真の神様」がいる
〈質疑応答1:絵画の感覚、写真の感覚〉
ここまでで、ご質問のある方はいらっしゃいますか?
田中:
河西:
私からいいでしょうか。田中さんは、以前から絵画的視点をもちながら写真に取り組まれていましたが、今回ははじめてたくさんの絵を描いていますよね。いい写真を撮っているときの身体の状況について先ほどお話がありましたが、それは写真に限らずあらゆる芸術、文化、スポーツなどで活躍されている方々が感じている、ある種の「ゾーン」に入っているときのことだと思うんです。
田中さんはこの作品を制作していて、写真と絵画と、それぞれのメディウムをどのように捉えていましたか?
田中:
いい質問ですね。今回の作品では、絵を先に描いていますが、まず作品のビジョンがあってそれを迎えにいくような感覚です。だから、絵を描いているときは写真を撮っているときと似ているし、印画紙を構成しているときは描いた絵に対して写生するような感覚と言えるかもしれない。
つまり、作品のメディウムとしては絵画と写真はそれぞれ存在するけど、制作時の写真的行為と、絵画的行為は逆転している。そして最後にそれらをアクリルのフレームで包むことによって、それらをシンプルに等しく受け止めることができるようにしていて。写真と絵画は、素材としては混ざることはないけれど、制作するときの感覚の中で逆転可能なんだという驚きがありました。
こういったアクリルの影は気になりますか? 立体感が出て、彫刻作品のようでもありますよね。
金村:
この厚みが隔たりを作っているようでもありますね。アクリルでいうと、画家のフランシス・ベーコン*12は、作品を額装するときにガラスを入れているんです。とても面白い行為です。彼は絵画を描くときの題材として写真を使っているんです。だから、写真をもとに絵画を描いて、描いたものを額装するときにガラスを入れて写真のほうへ少し戻すというか、ずらしていく。考え方はとても近いと思います。
田中:
みなさん『ゲルハルト・リヒター*13展』は見に行きましたか? 彼も写真と絵画を行ったり来たりしていますよね。写真と絵画についてお話しされている方は「写実的な絵画」を起点としていることが多い気もしますが、それは「写真的」でなく、また違う軸なのかも知れない。その辺りはどう感じますか。
河西:
リヒターは今回の東京での展示は見ていないですが、昨年SFMOMA(サンフランシスコ近代美術館)で見ました。彼はブレやボケを描いていますからね。あれは人間が見る世界にはなくて、カメラの世界の視点ですから、それを取り入れているのは面白いなと思っていました。「写実的」というのは、主観をまじえずに現実をありのままに表現することですけど、現実ではなく、撮られた写真を描いている。だから写真を「写実的」に描いている「写実的絵画」ですよね。でもブレやボケが描かれているし、グレーに塗りつぶしている作品は、写真もプリントを間違えるとあのようになってしまうから、見た感じはとても写真的だなと思って見ていました。「写実」は人間が描いていて、人間に力点が置かれますが、「写真」はカメラという機械に力点が置かれます。その意味では写真は人間の領域ではないですが、「写実的」だけではなく、そういった写真的視点も介入しているように感じます。
金村:
©︎ KANA KAWANISHI GALLERY
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田中:
僕が作品を制作する上で一番気になっているのは「抽象」という言葉です。「抽象」は、具体的なイメージがあっても表現可能ですし、具体的なイメージが抽象になり得るというのが、何よりも写真が得意とするところで、そこに写真の特質があるように感じています。
金村さんは「東京」を撮っているけれど、東京を撮っていないというふうに感じるんです。小松さんも「工事現場」を撮っているけれど、工事現場を撮っていないですよね。作品を見たときに、「東京はこういった感じ」というよりも「抽象性」を先に感じます。そこが同じようなスナップショット写真との違いであり、そこに勝手にシンパシーを感じているのですが、おふたりは「抽象性」について、どのように考えていますか?
金村:
そうですね、やはり写真は「抽象」と「具象」どちらもいけると思うんです。たとえば、ぱっと見は東京の写真でも、近寄って見ているとディティールで違うものが見えてくるし。もしくはタイトルを変えると、また違って見えてきますよね。僕は写真をやり始めたころによくギャラリーへ展示を見に行っていたけど、東京を撮っている写真のタイトルって必ず「東京」なんですよ(笑)。女の人が写っていると「女性」とかね。見たらわかるよってものばかり。
〈「写真」と抽象と具象〉
(笑)
一同:
金村:
こういったトートロジー(=同じことを繰り返し述べる修辞技法、同語反復)が写真の本質なのかなとも考えたけど、自分の写真には絶対に「東京」をつけないぞ、と名前を意識しました。そうすると少し見え方が変わるんですよね。「写真を撮る」というのはそこにあったものを撮るんですが、それはもうそこにはないわけだから、そこにあるのは「あった」という具体性と、「しかし今はない」という喪失の抽象性で、その両方が現れる。
写真はものをふたつに分断すると思うんです。具体と抽象、フレームの「中」と「外」とかね。「外」は写真では見えないけれど明らかに在るものなので、そういう意味では、抽象と具体をすごく行き来するのが写真だなと思います。
田中:
小松さんはいかがですか?
そうですね、私はいつも「写真の部屋」みたいなものを作っています。この部屋にはすごくたくさんの写真があって、一枚一枚を見るとそれぞれよく似ているけど、どれも違う。しかも、これは一点ずつ撮っているんです。バライタ紙*14でプリントして、写真のプロが推奨する方法で40分程度洗って、フラットニング*15もしています。大きいロールのプリントも含めてすべて自宅で作業しています。でもその工程を見せない状況を作っているんです。
小松:
『Komatsu Hiroko: Second Decade』展示風景
©︎ Hiroko Komatsu, courtesy Joseloff Gallery at the University of Hartford
たとえば、ここまで多くの写真があると、具体的にそこにあるのに、見ることができないんですよね。ひとつの写真に集中しようとしても隣の写真が目に入って、目が動いて注目できないんです。私は意図的にそういった状況を作ろうと思っていて、それが写真の特性とも言える「具象」性を使った「抽象」につながるんじゃないかなと思います。
また、床も使っているので、重力なども変わっているし、サイズは同じ写真でも、8×10(エイトバイテン)の25cm×20cmから、大きいロールのものは170cm×100cmくらいまで伸ばしています。大きさに限らず、いろいろなことをして把握できなくさせる、見えなくさせるようにしています。
小松:
金村:
小松さんは意外と写真の王道を踏んでいますよね。どの写真も傾いてないし、バライタだし、モノクロだし、カメラはライカを使っている。これが普通だったら写真おじさんが興奮する話なんだけど、小松さんの場合は違いますね(笑)。
そうそう。写真おじさんの大好きなライカM3を使って、バライタのファインプリントでこういうことするからすごくみんな怒っちゃって(笑)。
小松:
〈「見えなくてもいい」写真〉
小松さんの展示方法で好きなことのひとつは、展示の中に大きい印画紙が巻いてロール状になっているものがしばしばあって、鑑賞者は、巻いてあるから、その写真に何が写っているのか見えない、この随所に見えない写真があるというのが好きです。「見えなくてもいい」というところにも、写真の本質があるような気がするんですよね。
田中:
『Komatsu Hiroko: Second Decade』展示風景
©︎ Hiroko Komatsu, courtesy Joseloff Gallery at the University of Hartford
これは、もちろん中もプリントしているんですけど、ロールをゆるく巻いて見せないようにしています。すべてを見せない、見えないように展示空間を作っているんです。空間に入っても見渡せないし、視点が散って1点1点をきちんと見れないし、折り重なっているし、巻かれているから物理的に見えないところがたくさんある。でも「そこにある」というのが、写真的でしょう?
小松:
そうなんです。たとえば絵画の展示で、どこか少しだけ隠されていたらすごく嫌な気分がすると思うんですが、小松さんの展示で巻かれて見えない写真があっても、そこがすごくいいなと思うし、「見えないけれどそこにある」という潜在的な可能性こそが写真の本質に近いんじゃないのかなと思います。
もちろんすべてがすべて隠されてしまうのは違うと思うけど、見えるもの、見えないものがあることで、究極「見なくてもいい」という。ロラン・バルト*16の話で好きなことがあって、彼は「極限において、写真をよく見るためには、写真から顔を上げてしまうか、目を閉じることだ」みたいなことを言っていて。
田中:
(笑)
一同:
もちろんそれは比喩かもしれませんが、でもわかる気がするんです。これは絵画を見ることとは少し異質な感覚かなとも思いますが、こういった感覚が写真の魅力だと思っています。理由は自分の中でも謎ですが。
田中:
写真は記録ができるから、写っていることは真実だと理解されがちだけど、実は写真は何も担保していないのに、勝手に信じられているところがありますよね。2019年に梅津さんが埼玉県立近代美術館で企画された「DECODE展*17」では、梅津さんは「もの派の記録写真」が写真の存在を担保するものだと言いたかったのに、金村さんがいきなり写真を裏にして貼ったり、腐って使えなくなった印画紙を持っていくと言いだして、梅津さんはかなり動揺したと言っていました(笑)。
そう。だから写真は現実を保証しないと思うんですよ。いつか消えますからね。
金村:
先ほど「写真はかつてあった」というような言葉が金村さんからありましたけど、写真は「現在」ではないし、「過去」あったことの事実でもなくて、むしろ「未来」という気すらします。
田中:
金村:
写真は「かつてあったものを担保する」と信じられていますよね。だから「証拠写真」があるので。でも僕は「かつてあったものを担保しない」と思います。前からそう感じていたけど、写真を撮るにつれて、もうひとつ違うものを作っている感じがしました。
それは「過去」ではなく「現在」でもない。そうなるとそれは「未来」としか言いようがないんですよ。一般的に「未来」といわれると、過去があって、現在があって、その先にあるものだと思われるけれど、そうではない「未来」のことを言っています。それは果たして「未来」なのかといわれると非常に怪しいんだけど、違った「未来」が現れている気がします。
やはりそこはパラレルワールドのような感じがしますか?
田中:
小松:
そうですね。写真を撮ることで、見えない世界が見えてきますから。ちなみに、小松さんの作品で見えない写真があったことで、わざわざ交通費を掛けてきたのになぜ見えないんだと、どなたか怒っていたことがありましたね。
金村:
一同:
(笑)
その方は、僕のことを作者だと思ったようで、だから僕がすみませんと謝っておきました(笑)。「小松浩子」と書いてあるのに、小松さんの作品について、僕へ質問をする方がたまにいます。
金村:
私は会場にいても作者だと思われることが少ないんですよね(笑)。
小松:
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*12 フランシス・ベーコン:アイルランド生まれのイギリス人画家。20世紀最も重要な画家の一人とされ、現代美術に多大な影響を与えた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Francis Bacon
*13 ゲルハルト・リヒター:ドイツの抽象画家。現在、世界で最も注目を浴びる重要な芸術家のひとりであり、「ドイツ最高峰の画家」と呼ばれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Gerhard Richter
*14 バライタ紙:写真用に特別につくった用紙にバライタ層を塗布、乾燥させた印画紙用原紙。階調が豊かで黒の濃度が深い。
*15 フラットニング:乾燥後に波打っている印画紙を、プレスして平らにする作業のこと。
*16 ロラン・バルト:フランスの哲学者、記号学者、批評家。
*17 「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019年、埼玉県立近代美術館)