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藤村 豪 個展『誰かの主題歌を歌うときに』

■会  場

■会          期

​■開  廊

KANA KAWANISHI GALLERY

〒135-0021  東京都江東区白河4-7-6 

2020年6月6日(土)~ 2020年7月11日(土)

※会期延長:〜7月18日(土)【最終日は〜18:00】

火曜〜土曜:13:00〜19:00(日・月・祝 休廊)

《ポストカード(新しい手紙を書くために)》
〈読めない手紙 / 新しい手紙〉より
2020 | replicated postcard (offset print) | 148 × 100 mm
© Takeshi Fujimura, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY

KANA KAWANISHI GALLERYは、2020年6月6日(土曜日)より藤村豪個展『誰かの主題歌を歌うときに』を開催いたします。

 

藤村は「他者の経験を私たちはどのように理解するのか」、そしてその分有についてを確かに実感し得るものとして、主に写真や映像で提示する作品群を一貫して制作し続けてきました。

例えば、映像作品《同じ質問を繰り返す/同じことを繰り返し思い出す(どうして離婚したの?)(2014年より継続)では、同じ人物に「離婚した理由を教えてください」と6年間に渡り、同じ質問を投げかけ続け、その時々で本人から紡ぎだされる言葉を映し出しています。質問をする度にその理由とそれを表す言葉が変化をする様子は、当事者と出来事の結びつきの流動性、その度に変更を求められる聞き手の理解といったものを、時の移ろいとともに示します。
 

本展『誰かの主題歌を歌うときに』は藤村が日常的に向かい合う出来事をモチーフに、写真、映像、そしてテキストを中心としたインスタレーションで構成されます。

届いた時にあらかた文字が消えていたポストカード、作家自身のそれとは異なる姿をした息子の左手、身近な自然現象についての探索、友人の離婚をめぐる対話。その起点をより私的なものとしながら、様々な出来事の理解のために試みた「手探りで無遠慮」な、そして「不自然な再演」についての記録の数々が紹介されることになります。

また本展では、自動翻訳を介した深川雅文(キュレーター/クリティック)との往復書簡を、パフォーマンスとして展覧会の会期中に展開させます。

 

私たちが本来的に抱える他者理解への望み、そしてそれに伴う不可能性について。「誰かの主題歌を調子はずれに歌」いながら奔走する藤村独特のアプローチを是非ご高覧ください。

《同じことを繰り返し質問する/同じことを繰り返し思い出す(どうして離婚したの?)》
2014-2020 | HD video, sound
 © Takeshi Fujimura, courtesy KANA KAWANISHI GALLERY

デサフィナード✴︎  /   わたしたちは、いま、どこにいるのか 

見えざる脅威(感染症)によるグローバルな災禍は、わたしたちの距離感覚に影響を与えざるを得ないだろう。

 

21世紀初頭、忽然と姿を現したガラスと金属でできたモノリス状の装置(iPhoneから始まる)が、わたしたちの日常に欠かせないモノとなって久しい。それは人と物事と情報に対する距離感を劇的に変化させた。わたしたちはそれにより世界中の人々、世界中の場所の画像と情報をあっという間に探し出し手にすることができる。まるで、世界は手のひらに乗っているかのようだ。しかし、理解と想像力を超えたところで起こる出来事は、わたしたちに不意打ちを食らわせ、近くに引き寄せたと思った世界は一瞬のうちに指の間からするりと抜け出して遠くに行ってしまう。

 

「百聞は一見にしかず」という格言がある。数多の伝聞を頼るより間近に寄って見ることでことの真実が即座に理解されるということである。人口に膾炙しているこの言葉は、私たちが日常的に抱いている真実性の概念を上書きしている。その根は深く西欧の伝統的な思想に遡る。真実を理解するというのは、超越的(客観的)な視点(宗教的、哲学的、科学的、社会的…)を通して、対象となることがらのあるべき正しい認識に至るという思考回路が働いている。真実とは何かひとつの確たる到達点であるかのようにイメージされがちである。さすがにこうした捉え方の綻びは隠すことが難しくなり、たとえば、ポスト・トルゥースやらフェイク・ニュースといった言葉も耳にして久しい。

 

藤村豪の仕事は、ことがらの本当のありかたが何なのか、その理解に至るのにはどのようにすればいいのかといった問いを巡って動いてきた。そしてその問いの風景をイベント、コミュニケーション、写真、映像、言葉などで紡ぎ上げて見えるものにするという創作活動を進めてきた。たとえば、《同じ質問を繰り返す/同じことを繰り返し思い出す(どうして離婚したの?)》という作品(2014〜)がある。ことがらの直接の当事者から聞く言葉は、繰り返すたびに微妙にドリフトを見せる。ひとつの真実がそこにあるわけではないこと、多義的であることが炙り出される。それは、しかし、真実の探求の挫折ではない。そもそも真実は無数の視点によって照らされることによって示されるしかないのだ。

 「認識対象への認識者の適合の過程なるものは、実は視点から視点へと踊り歩くことだと思える。真実の探求は、実は問題の周りをめぐることだと思える。そのさい、周りをめぐることがはじめて、問題を認識対象にするのである。」

(ヴィレム・フルッサー)✴︎✴︎  

 世界と真実の伝統的概念が融解する中、藤村の仕事は、世界に対して取るべき態度(ルビ:アティチュード)の書き換えという見逃せないプロジェクトへと見る者を誘っているように思える。声高にではなく、慎ましやかではあるが強かに、世界を想像する新たな力の喚起のための道を照らし出す。

 

彼の歌声は清明ではあるが少し「調子外れ」なのかもしれない。が、それは歌われている主題(消えかかった葉書の送り手や愛する息子など)の声に耳(あるいは目)を傾け寄り添いながらも、それに単純に合わせるのではなく、事の顛末に想像を巡らしたりあるいは理解の方法を自問しながらのことで、距離と位置どりを模索するプロセスから招来するのだろう。その試みは時に繊細でありまた時に大胆で、音調とタイミングには揺らぎが生じてくる。“デサフィナード”という曲と言葉が私に想起された所以である。

 

世界との距離、人と人との「間」を私たちはどのようにして測り、取りながら生きていくのか?

傍で口ずさむ藤村の歌に耳をそばだてながらこの問いの周りを少しゆっくりと一緒に歩いてみよう。

 

深川雅文(キュレーター/クリティック )

https://www.mfukagawa.com/

 

 

 

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[註]

 

✴︎

デサフィナード Desafinado

アントニオ・カルロス・ジョビン作曲、ニュートン・メンドンサ作詞のボサノヴァの楽曲《Desafinado》。1959年に発表された。“Desafinado” (ポルトガル語)= “slightly out of tune”= 「調子はずれ」の意味。歌詞に初めて「ボサノヴァ」という言葉が使われた曲である。

 

✴︎✴︎

ヴィレム・フルッサー著/村上淳一訳『テクノコードの誕生』(1997年 東京大学出版会) p.274

アーティストステートメント

わかるはずのないことをどうしてもわかりたいと思うこと。

 

息子が自分の手をお菓子に見立て、僕へと差し出す。

差し出された右手と左手を僕は順番に「パクッ」と食べる振りをする。

左手を食べようとすると「ないからやめて」と言われた。

一つの出来事は息子の左手をめぐり、二つの経験の間に位置することになる。

彼は彼自身の左手には食べられるような手指がないと思っているが、

僕から見ればそれは確かにそこにあると思える。

 

どうしたら自分以外の人の経験とその理解に辿り着くことが出来るのだろうか。

 

ポストから取り出した手紙の文字は雨に濡れて消えかかっている。

同じ質問を繰り返しても友人の言葉はその都度違う。

降らせた雪は降り注ぐ雪とは同じにはならないらしい。

 

いったいどうすればいい?

 

誰かの主題歌を、調子はずれに歌うこと。

一致をみない歌が絶えず流れ続けること。

 

私たちの理解はいつだって手探りで不遠慮、

そして不自然な再演を通して行われている。

藤村 豪

アーティストプロフィール

藤村 豪(ふじむら・たけし)

 

1980年生まれ。早稲田大学第一文学部文芸専修、東京綜合写真専門学校卒業。主なプロジェクトに『同じ話を異なる本で読む(ウルフのやり方で)』(2015年、BankART Studio NYK、神奈川)など。「藤村豪&内野清香」としての個展に『ふたりの喧嘩は三人目の愉しみ』(2014年、川崎市市民ミュージアム  映像ホール、神奈川)、『ふたたび考えるためのレッスン(プロジェクトと出来事をかたちづくる)』(2013年、mujikobo、神奈川)、『UNDER35 GALLERY 藤村 豪 & 内野清香 展』(2011年、BankART Life 3 新・港村、神奈川)など。

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